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新聞社退職エントリ

退職したらやっぱり「退職エントリ」ですよね。うまく書けるかわかりませんが、とにかく書いてみます。

3年務めた会社を辞めました。新聞社です。大手と言われるところです。本社での仕事はせず、地方支局での仕事でした。今は未練も後悔もありません。

今思い返すと、最初の1年半は伸び伸びやらせてもらって、楽しい日々でした。とりわけ、ラグビーワールドカップの取材は楽しかった。英語を使って選手に取材ができたし、ファンの話を聞くのもの楽しかった。エディー・ジョーンズ監督に直接取材ができたのも心が震えました。深夜まで賑わうパブで、ビールを飲んで半分酔っ払いながらファンたちと語り合ったのもいい思い出です。コロナ前でしたから、初対面の人たちと肩を組み合って試合を見たり。今じゃ考えられないですね。

新聞社では、1年目は地方支局での警察担当と決まっています。警察担当とは、端的に言うと、事件や事故を取材する担当です。殺人事件、死体遺棄事件など物騒なものから、窃盗、虐待、詐欺、交通事故…なんでもありです。火災現場にも行きますね。

「事件・事故が起きた」という一報を聞いて、すぐに車を飛ばして現場へ行く。そういう仕事です。現場へ行けばとにかく周辺の聞き込み。お陰様で(?)、人の家にピンポンするのは何も感じなくなりました。迷惑なものです。でも、意外とみなさん優しくて、知ってることは教えてくれる人が多かったです。そんなときは「お時間いただきすみません。本当にありがとうございます」と頭を下げ、感謝します。でも、何度も同じ話を聞かれている人はもうウンザリしてしまって、話を聞かせてくれないことも。だからこそ時間勝負です。なるべく早く現場へ行くことを心がけていましたが、何分最初の一報が遅いとどうにもならないので限界はありました。現場での取材は大変ですが、パズルのピースが目の前で組み合わされていくような感覚があり、やりがいがありました。楽しいこともありました。想い出深い現場というのもあります。

1年目の取材は事件事故のほか、やはり、高校野球の取材です。最初は、「なんで高校野球?他のスポーツはやらないのに」と疑問を持っていました。でも、最初はやらされるうちに分かったのは、高校野球は「視聴者」が多いんですね。読者は楽しみにしているわけです。それはやっぱり、プロ野球は日本では特別な位置をしめていて、高校野球はプロ野球に繋がる道だという理由があります。大人の理由ですね。球数制限を全然効果的にできなかったり、炎天下の中で大会を続けていることなど、高校野球には問題が多いと感じます。みなさんが思っているように。でも、高校野球の取材はやらざるを得ない。問題点を指摘する記事を書いてもいいのですが、なかなか、1年目の筆力では書けません。目の前で展開するゲームを追うので一苦労。すぐに春と夏の大会は終わりますし。微妙に疑問は残るけど、やっぱりやらないといけないし、仕事だしということで取材していました。でも、取材自体はわりと楽しかったです。高校生はなんだかんだ素直で可愛らしいし。頑張ってるのは事実だし。目の前でハツラツとプレーされると、色んな疑問点なんかは吹き飛びます。そういうもんです。もともと野球は好きですし、それなりに楽しく取材できました。

1年目は事件事故と野球取材、そしてラグビーワールドカップ取材ですぐに終わっていきました。なかなか、自分からオリジナルの問題意識を持って取材するのは難しかったですね。それでも、いくつかは書けました。僕は外国人労働者の問題とか、多文化共生とか、そのへんに興味があったので、そういう記事を何本か書きました。かといって上司に褒められはしませんでしたが、大きく紙面には載せてくれたので、まあ好きにやらせておこうという感じだったのだと思います。

紙面は、全国版と地域面があります。全国版は、いわば全国ニュースです。なので、なかなか載せてもらえません。僕の書く記事はほとんどが地方ニュースとして、地方面に載りました。全国版に載ると、紙面のスペースの都合もあり、短く、短くされます。でも、地方面はスペースが有り余ってるので、長く、大きく載せてもらえます。なので、達成感としては地方ニュースを書くのも悪くなかったです。むしろ地方面で大きく載せてもらうのも大きなやりがいの一つでした。自分が書いた記事はスクラップして残しているのですが、多くが地方面に載ったものです。これもまたいい思い出ですね。

2年目も警察担当でした。高校野球の取材も少しありますが、基本は1年目に入ってきた記者のサポート役です。

2年目になり、警察担当を取り仕切る「キャップ」から、「君の書きたいことを書けばいい。それで、一体何を書きたいんだ?」とよく問われました。自問自答の始まりです。何が書きたいんだろうと考えると、まずは面白い記事、ネット上で読んでもらえる記事。このあたりです。自分が書きたいのもそうですが、なるべく「読者の需要」に合わせたいと考えていました。まあ、その「読者の需要」が一体何なのか、ということが難しいのですが。何が読まれたか、というデータもなんというかよく分からないですし。生のデータは会社から提供されるのですが、それを現場がどう分析して活用するのか、よく分かりませんでした。今はよくデータ活用が叫ばれますが、どこもよく分かっていないんだと思います。というのも、ヤフーとかGoogleは膨大なデータがあるからそれを分析していけばいいのですが、新聞社が持ってるデータは限られています。それをまたほとんど生のまま現場に下ろされても、なんだかよく分からない数字が目の前にあるだけで、混乱します。なので、自分の書いた記事のデータも見てはいましたが、やっぱりよく分からないので途中から見ていませんでした。

それよりも、読者からの反応が心の支えでした。けっこう手紙が来たんですよね。直筆の。「あなたのこの記事が良かった。頑張ってください」と。これには励まされました。この人たちのために頑張ろう、と思いました。僕宛に寄付が来たこともあります。困っている外国人留学生の話を書いたときでした。もちろん、支援者団体の方に渡しました。記事の反響にはたびたび驚かされました。近年は衰退しているという新聞社にも、まだまだ影響力があるのだと実感した経験でした。

ただ、2年目の後半辺りから、体調を崩すようになりました。まず、お腹の調子が悪くなりました。それと、希死念慮が湧いたんですね。当初は軽いうつ病だったと思います(後述するように3年目は重いうつ病になります)。日曜日の休みの日、原稿を家でチェックしているときでした。休みの日なんですが、原稿チェックとかはするんですね。よく考えたらおかしいのですが。当時はあんまりおかしいと思っていませんでした。マンションに住んでいたんですが、そこから飛び降りるイメージに取り憑かれました。どストレートの希死念慮です。病院に通うようになり、抗うつ薬を飲みながら仕事を続ける日々が始まりました。過酷ですね。でも、「メディアの仕事はこんなもんだ」と思っていましたし、薬でコントロールできるものだと思いこんでいました。

そして、3年目。体調はますます悪くなりました。担当は引き続き、警察担当。またもや事件と事故です。正直、もう外してほしかったですが、僕の希望を聞く機会は一度もありませんでした。「来年もやってもらうから」と言われ、「はい」と答える。終わり。この会社にはあまり若手の声を聞くとか、希望を一度聞いてから物事を進めるとか、そういう文化がないのだと分かりました。まあ、文化ですね。人によって違うのかもしれませんが。少なくとも僕が接した上司はそうでした。というか、ある上司からははっきりと「あんまり希望とか言わないほうがいいよ。うるさい奴と思われたら、今後、君の将来にとっても良くないから」と。呪いの言葉ですね。「分かりました」と答えました。ああ、僕は希望なんか言わないほうがいいんだな、というか希望なんか持たないほうがいいんだなと思いました。若手のうちはそうやって我慢すればいいのだと。我慢しなきゃいけないのだと。そう思いました。これが、その後の僕をずっと苦しめることになります。

体重はどんどん減っていきました。半年で13キロ痩せました。ズボンのサイズは2サイズ小さくなりました。「痩せた痩せた」とちょっとウキウキして、新しいズボンを買いました。体はゲッソリしてましたが、から元気はあったんですよね。「こんな過酷な中でも頑張ってる自分えらい、すごい」という感覚です。マゾヒスティックですね。でも、そういう自分をなんとか褒めることでしか自分を保てなかったんです。

そもそも、事件とか事故はあんまり好きじゃないです。取材自体はやりがいはあるんですよ。でも、そもそも殺人事件とか怖いじゃないですか。死亡事故もこわいです。慣れるうちにその感覚は薄れていくのですが、そういう自分も嫌でした。なんとか被害者に寄り添う取材を、と思って取材はしていましたが、それもまたしんどいです。心をすり減らします。2年が限界だったのだと思います。2年以上は無理でした。他の社では、その地方での警察担当は1年か2年しかやらせてないようでしたが、うちは違いました。「男だし、タフそうになんでもこなすからお前は大丈夫だろ」という感じでなんでも任されました。本当に、なんでも任されましたね。いろんな現場にいき、警察でレクを受け、また現場へ…。その間に、他社の記者と遭遇するんですが、3人と会うんですよ。ということは、3人分の仕事してるんですね。「俺は3人分の仕事してるんだ」と自負心にもつながったんですが、やっぱり仕事の負担は大きかった。しんどかった。今ではそう思います。やっている当時は感覚がマヒしていますから、「俺は頑張ってるえらい」でなんとか自分を鼓舞して、しんどい現実には目を向けませんでした。

3年目の中頃、事件が立て続けに起こりました。1ヶ月の休みは2-3日。ずっと取材、現場、取材…。選挙も重なり、選挙の取材もやらされました。選挙くらい、外してほしかったなあ。「外して」とは言えませんでした。なんせ「希望は言わないほうがいいよ」という上司ですから。無理ですよね。とてもじゃないけど言えませんよ。「うるさい奴」と思われたら負け。そういう価値観で動いていました。

でも、限界がきました。体が起き上がらないのです。というか、眠れません。1時間ごとに目が覚めます。「ビクン、ビクン!」と体が引きつけを起こしたようになりました。「ああ、限界だな」と思いました。もちろん希死念慮もあります。限界も限界でした。

この過程である上司からさらなる呪いの言葉をかけられました。辛かった。ここには書きませんというか書けません。

そうして、休職しました。僕はもう終わった、と思いました。「僕の人生は終わった」と。これで出世コースからは外れたし、「うるさい奴」「自分の権利を主張するやつ」になったと。(そうそう、ある上司からは「俺は自分の権利を主張するやつが嫌いなんだよな」とよく聞かされました。素直で真面目な僕は「自分の権利は主張しないでおこう」と思いました)。

休職して初めの3ヶ月は起き上がるのもしんどかった。辛かった。うつ病って、しんどいですね。たまらないですよ。うつ病、みなさんも気をつけましょうね。ならないほうがいいですよ。

まあそんなこんなで、結局、会社を辞めることにしました。後悔はないです。うつ病になったし。そういう職場だったし。会社の病理も垣間見えたし。いろいろ仕方なかったです。

今はけっこう、日々前向きに過ごしていますよ。悪くないです。周りの友達を大切に、家族を大切に、優しく生きていきたいです。残念ながら、会社ではなかなか、そういうふうには生きていけませんでした。もしかしたらそういう部署もあったかもしれませんが。それはよく分かりません。少なくとも僕のいた地方支局はそうじゃなかった。それが僕のリアリティーでしたから、誰にも反論・否定される筋合いはありません。

まあ、こんな感じです。何かの参考になれば。

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