上野を超えて

11月の、ある土曜日の昼頃である。
この日横浜方面に向かう予定だった私は、常磐線の北千住駅からグリーン車に乗って移動した。
到着した普通列車は通勤ラッシュ並みの混雑だったが、編成の中程に連結されているグリーン車はまずまずの乗車率である。
グリーン車は1階席と2階席があるが、私は2階席へと上がった。
車内に入り空席を探していると、ちょうど私が入ってきた入り口から最も近い席が空いている。
その後ろ、すなわち2列目には「競馬エイト」を広げた2人組の老紳士が歓談していた。
少し考えた私は、その空席に腰掛け、特に断りを入れることなくリクライニングを最大に倒した。
いうまでもなく、後ろの老紳士の会話を盗み聞きするためである。

「どうだい。今年は何が来るかな」
「オレはシャフリヤールと見ているね」
「来るかねえ」

どうやら明日のジャパンカップの予想談義に明け暮れているらしい。

「オレはこのレースに強いからね。去年も一昨年も、その前も勝った」
「ふーん。どれ、去年がコントレイルで一昨年がアーモンドアイ。その前は……」
「スワーヴリチャードだ」
「ああ、それだ」
「いいかい。ジャパンカップの勝ち馬は、過去このレースで好走した馬なんだ。つまりリピーターが強いってわけさ。今年のメンツだとシャフリヤールが前年2着の実績がある。これより好走している馬はいないね」

なるほどと感心した。
ジャパンカップの歴代勝ち馬とその過去の実績を整理してみると下記の通りとなる。

・コントレイル 2020年ジャパンカップ2着→2021ジャパンカップ1着
・アーモンドアイ 2018年ジャパンカップ1着→2020年ジャパンカップ1着
・スワーヴリチャード 2018年ジャパンカップ3着→2019年ジャパンカップ1着

このように、ジャパンカップの歴代勝ち馬は、過去の同レースにて3着以内に来ている馬ばかりである。
このリピーターの法則に当てはめると、去年のジャパンカップで2着だったシャフリヤールが最有力候補ということになる。

シャフリヤールは前走の天皇賞・秋こそ5着に終わったが、春にはドバイのレースを制しているし、なんと言ってもジャパンカップと同じ舞台の日本ダービーの勝ち馬である。
老紳士が得意げに予想するのも納得せざるを得ない。

その間に列車は三河島・日暮里を過ぎ、上野駅に到着していた。

「どれ、ここは一つお前さんの予想に乗っかろうじゃないか」
「まあ待てよ。本命はシャフリヤールだが穴馬として押さえておきたい馬がいてね」
「ほう」

これはまた面白い話が聞けそうだと胸を躍らせていたが、なんと彼らは上野駅で降りてしまったのである。

静かになった車内で、はてと私は考えた。
これから競馬観戦に行かんとする者が、上野駅で降りる理由がないからである。
そもそも競馬場に行くのであれば上野方面に向かう電車に乗る必要がない。
競馬開催中の東京競馬場に行くのであれば、逆方向の電車に乗るのがメジャーなルートである。
では「WINS」すなわち場外馬券売場に足を運ぶのだとしたら?
この辺りで大きな所となるとパークウィンズの中山競馬場か、WINS浅草もしくは汐留がある。
しかし中山なら東京競馬場と同様に逆方向となるし、浅草に行くならば北千住駅から東武線に乗らなければならない。
一方で汐留ならばこの列車で新橋駅まで向かえば良い。
それならば彼らの行き先は汐留で決まりである。
実のところ、この疑問はこの老紳士たちを車内で見かけた時から抱いていており、彼らの予想話に耳を傾けながら私はこのような推理を展開していた。

しかし、予想は外れた。
彼らは新橋駅を待つことなく上野駅で下車したのである。
これでいよいよ彼らの目的地がわからなくなってしまった。
だが、もしかしたら私が認知していないだけで、上野に競馬関係の施設があるのかもしれない。
そう考えた私は、手元の端末であれやこれやと調べてみることにした。
結局、彼らの行き先の手がかりとなる情報は発見できなかったものの、一つ興味深い事実に行き着いた。

それはこの上野の森にかつて競馬場があったという事実である。
「上野不忍池競馬」という名前で、1884年から1892年までのわずか8年間だけ開催していたようである。
主催は共同競馬会社という組織で、その幹事には伊藤博文、松方正義といった首相経験者から、三菱財閥の総帥・岩崎弥之助といった経済界の重鎮まで錚々たる顔ぶれが名を連ねている。

上野不忍池競馬場は、不忍池の外周をぐるりと一周するコースで、その全周はおよそ1,600mとコンパクトな設計だったものの、そのロケーションはあのフランス・ロンシャン競馬場を意識したものだという。
なぜ遠い欧州の競馬場がベンチマークに出されたのか。
それは、この上野不忍池競馬が「貴族の社交場」としてつくられたからである。
上野不忍池競馬が開かれた1880年代前半は、いわゆる鹿鳴館外交の全盛期で、ダンス・パーティーといった欧米の様々な風習を「模倣」して取り込んだ時代である。
そして上野不忍池競馬もまた、欧州競馬の持つ「貴族の社交場」という側面にフォーカスして開催された。
競馬開催時には明治天皇がしばしば行幸されたり、政府高官の夫人が賞金を提供するレースが行われたりしたほか、不忍池には豪華な飾り付けが行われ、音楽隊による演奏や、果てには花火の打ち上げまで行っていたという。
おおよそそれは、現代の大衆競馬とは似ても似つかぬ、荘厳で華やかな催しであっただろう。

しかし結局資金繰りがうまく行かず、開場からわずか8年後の1892年に上野不忍池競馬は幕を閉じるのである。同時期には鹿鳴館もまた、外交の舞台としての役割を終え、払い下げられている。

もし。
上野不忍池競馬の経営が軌道に乗り、日本競馬の礎を築く存在になっていたら。
例えば今の東京競馬場は、豪華なシャンデリアが似合う施設になっていたかもしれない。

もし。
上野の森に今でも競馬場が存在していたら。
上野駅は、優雅に装いを凝らした紳士淑女の待ち合わせ場所になっていたかもしれない。

そんな欧州競馬を体現した日本競馬というものも、あるいは東京の街の一角が国際色豊かに彩られるのも、興味深い事実として見てみたい気持ちがある。そして、その時代を駆け巡る優駿とは一体どんな馬なのだろうか。

そこまで考えて、私は「否」と心で呟いた。
そのような上流競馬に、果たしてハイセイコーやオグリキャップといったヒーローは誕生しただろうか。あるいは、テンポイントやサイレンススズカの生涯が伝説として語り継がれただろうか、と。
「競馬ファンは馬券を買っているのではない、自分を買っているのだ」とは寺山修司の言葉である。
生まれや育ちにハンディキャップがあろうとも泥臭く這い上がって頂点に登り詰める馬たちに、若き日の挫折を乗り越えて瞬間の栄光をつかむ馬たちに、ファンは自らを重ね合わせ、また夢を見る。
そんなファンの支持がやがて名声となり、歴史となるのである。
上流による上流のための娯楽においては決して誕生し得ないヒーローであり、彼らはまさに大衆競馬の申し子なのである。

ひとり残された列車の中で私は思考に耽っていた。
テーマはもちろん、明日のジャパンカップの勝ち馬についてである。
やはり先の老紳士が言うように、リピーターであるシャフリヤールが最も手堅いのだろうか。
「うーむ」と私は唸りながら、車窓にうつる上野の森を眺めた。
それは、既得権益を持った上流階級たちの娯楽の跡である。

後ろの席に振り向くと、くしゃくしゃの「競馬エイト」が置かれていた。
老紳士たちの忘れ物らしい。
私はそれをひょいと取り上げると、ゆっくりと開き、出馬表に目を向けた。
そこには、出走する18頭の馬番号と馬名が縦一列に羅列されている。
その中の一頭に赤ペンで丸印が書かれている。
「言っていた話と違うじゃないか」
と私は苦笑した。
「競馬が人生の比喩なのではない。人生が競馬の比喩なのだ」と言う寺山の言葉が頭に浮かぶ。
私は、あの老紳士の人生について思いを馳せずにはいられなかった。

列車はしばしの停車の後、上野駅を出発した。
私は新聞を眺めたのち、隣のシートに投げ捨てた。
目的地の横浜まではまだ距離がある。
リクライニングを倒し、目を瞑る。
脳裏には、横浜の青い海と行き交う船の風景が浮かんだ。

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