見出し画像

私のオキナワ

アメリカから日本へ沖縄が返還された1972年、私は3歳になっていた。この年、父の転勤で生まれ育った福岡市から、沖縄・那覇市に引越した。

物覚えを始めるのは、ちょうどこの時期。

だから、私が自分のいる世界に気づくと、そこは亜熱帯性気候の抜けるような青い空と海底のサンゴ礁まで鏡のように見える海、そして情熱的な赤のハイビスカスが咲き乱れるという世界だった。

正直に言って、正確に記憶していることは何一つない。

20歳のときに、沖縄に行く機会があったが、そこで受けた印象は「懐かしさ」というより「珍しさ」だった。こんな小さな島に2年間も暮らした時代が、私の歴史の中にあることが信じられなかった。しかし、断片的な記憶ならいくつかある。

それが私の知っている『オキナワ』のすべて。

                ☆

沖縄にいるときは、保育園に通った。そこで、ガキ大将をやっていた。何故か。本土からやって来たから?まさか。そもそも、当時の本人にはその自覚は皆無だ。保母さんに何かをやらされた記憶はない。とにかく、全く自由な保育方針だったように思う。私は、保育園の中庭にあった『にがうり』を勝手に採って、よく振り回していた。母に連れられての帰り道に、横文字の店がたくさんあった。

               ☆

うちのアパートのお隣に大学生が住んでいて、大きな犬を飼っていた。その犬を時々ベランダで水をかけて洗ってやると、実にたくさんの虫が出てきた。私は、お菓子の空き箱に「彼ら」を大切に回収して、これからこの友達を家の中で飼おうと言って、母に見せた。その時の母の悲鳴は未だに忘れられない。私はノミやダニ以外にも、ゴキブリまで友達にしていた。

               ☆

風邪で高熱が出たある夜、怖い夢を見た。夕方、私が家で大好きな「タイガーマスク」を見ていると、玄関のベルが鳴った。隣にいた母は、編み物をしていて手が離せないので、私が玄関に走り、ドアを開けた。すると、買い物から帰ってきた母が笑って立っていた。奥でもう一人の母が、誰なの?と聞いている。今までに、これ以上の怖い夢を見たことがない。

               ☆

うちのアパートの前には、新しく造られた相撲場があった。しかし、そこで相撲を見た記憶はない。毎日のように、昼間からおじさん達が集まってきて酒を飲んでいた。退役軍人だったかもしれない。側で無邪気に遊ぶ私達に、時々説教していた。ある時、私が一人で遊んでいると、おじさんが手招きした。そして、無理やりつまみの厚揚げを食べさせた。初めて食べた大人の味は、何故かとても苦かった。

               ☆

母とデパートに行った時、欲しかった「超合金グレートマジンガー」を買ってくれた。この「超合金」には当時の私達にとって、特別な意味があった。テレビの影響で、どんな鉄よりも強いと信じていたのだ。腕の所がプラスティックになっていて、ボタンを押すと「ロケットパンチ」が飛び出す仕組み。ある時、友達にこの宝物を見せようと、アパートの前まで連れてきた。すると、たまたま2階のうちのベランダに私より一つ下の妹がいた。私はその宝物を2階から落とすように、妹に命じた。友達の前で、小さな黄色い帽子でかっこよく受け止めるはずが、見事失敗。その瞬間、私の宝物は腕だけでなく、頭まで「ロケットパンチ」状態にぶっ飛んでしまった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?