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Atomic Boy
長身の男が家の戸を開けると、既に真夏の太陽が容赦なく照り付けていた。
もう暑いから弁当を食べていくか。
時計を見ると、まだ午前8時を過ぎたばかりだった。実に、のんきな男である。足の悪い妻の作ってくれた弁当を食べてから仕事に行くことにした。家には、ようやく1歳になる娘が泣いていた。かわいい娘の顔を覗き込んで、弁当をちゃぶ台に広げた。弁当箱を開けたその時に、目の前の世界が強烈な光線とともに一瞬にして消えた。
最初、男は空襲の直撃弾だと思った。もう、自分は死んでいるはずだ。その男はそう思ったに違いない。しかし、娘の泣き声が聞こえる。
夢だろう。いや、泣き声が先ほどより大きく聞こえる。
助けなければ!
男は、自分の上に乗っていた角材や瓦を押しのけると、娘の泣き声がする方まで歩み寄った。娘は、うつ伏せになり、焦げた角材の下敷きになっていた。男がその角材を取り払い、娘を抱き上げたときに、幸いにもその近くで妻も意識を取り戻した。
とにかく逃げよう。
自分たちの目の前で何が起こったのかを確認する前に、男は娘を抱いたまま、足の悪い妻の手をとり、ただひたすら西へ西へと逃げた。このことが、爆心地から半径500メートルほどの場所から、家族3人が生き延びるという奇跡となった唯一の選択だった。辺りは、火が上がり始め、助けを求める人の声が多くあっただろうが、おそらく耳に入らなかったろう。
これが、昭和20年8月6日の私の祖父の実体験である。
☆
この話は私が小学生の頃、母から教えてもらった。一緒に風呂に入った際に、背中の黒いアザはどうしてできたのかと私が聞いたからだった。
母は、テレビドラマのストーリーを語るように、あまりにあっさりと話をしたので、当時の私もそれほど気にも留めなかった。
私の両親は極普通に私を育てた。典型的な会社人間だった父は、私が立派なサラリーマンになるという人生を押し付けようとした。
しかし、私は子供の時から少し変わっていた。
最初に、みんなと何か違うと感じたのは、小学6年生のときに学校で将来の夢を発表し合ったときだった。前日の宿題として、自分の将来の夢を作文にしてみんなの前で発表することになっていた。みんなの将来の夢は、実に話しやすく受け入れやすいものばかりだった。
パイロットになって、世界の空を飛び回ること。
大きな家を建て、家族全員幸せに暮らすこと。
会社の社長になって、お金持ちになること。
地元で小さなパン屋さんになること。
かわいいお嫁さんになって、かっこいい人と結婚すること。
プロ野球の選手になって、女の子にモテモテになること。
マスコミ関係に進み、有名人とたくさん知り合いになること。
公務員になって安定した生活を送ること。
私は内心羨ましかった。クラスのみんなも、みんなの将来の夢を茶化したり、励ましたり、大いに盛り上がっていた。
とうとう、私の番が来た。勇気を振り絞って、昨日書いた作文をそのまま読んだ。
『世界で対立しているアメリカとソ連(現ロシア)を融合させ、世界をひとつにすること』
こんな夢だった。東西の冷戦が叫ばれていた時代である。
私の発表が終わると、一瞬クラスが静まりかえった。クラスの優等生がこんな発表をすれば納得されるかもしれないが、相手はかなりの問題児である。
やがて、担任の女の先生が、
「誰に教えてもらったの?」
と声をかけてきた。私も自分のキャラを自覚していたので、
「あっ、バレたか!」
と言って、頭を掻いてクラスの笑いをとって済ませた。
その後、大学に入学してから、私が広島から来たこと、誕生日が8月6日だったことから『アトミックボーイ』と呼ばれた時期があった。
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