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詩的な世界も生きる勇気はあるか

寺田寅彦という随筆家がいる。正直なところ彼の著書は沢山読んでいるわけでもないが、ただ一冊のあるフレーズがどうしても忘れられない。
黴臭く、ひんやりとした大学の地下書庫で、手に取ったその本の一節に、俺は只管にやられた。

日常生活の世界と詩歌の世界の境界は、ただ一枚のガラス板で仕切られている。

出典:『柿の種』寺田寅彦 岩波文庫

詩的なものや芸術に憧れていた当時の俺は、その一方で、芸術なんて過度にセンチメンタルで役に立たないものなのかもしれないと畏れていた。役に立たないことが芸術の自己目的である、と賢しらにどこかで知った様なことを唱えてみても、いっそう白々しく感じられて自分を欺けなかった。役に立つ学問を、人に褒められる勉強を、スタンプラリーの如くこなして行く友人も、憧れているくせにどうも憧れきれなかった。
「自分の好きなものは現実にはなんの役にも立たないのかもしれない」、そんな畏れは正直今でも抱えている。

ところで、この一節の後はこの様に続く。

 このガラスは、初めから曇っていることもある。
 生活の世界のちりによごれて曇っていることもある。
 二つの世界の間の通路としては、通例、ただ小さな狭い穴が一つ明いているだけである。
 しかし、始終ふたつの世界に出入していると、この穴はだんだん大きくなる。
 しかしまた、この穴は、しばらく出入しないでいると、自然にだんだん狭くなって来る。
 ある人は、初めからこの穴の存在を知らないか、また知っていても別にそれを捜そうともしない。
 それは、ガラスが曇っていて、反対の側が見えないためか、あるいは……あまりに忙しいために。
 穴を見つけても通れない人もある。
 それは、あまりからだが肥過ぎているために……。
 しかし、そんな人でも、病気をしたり、貧乏したりしてやせたために、通り抜けられるようになることはある。
 まれに、きわめてまれに、天の焔ほのおを取って来てこの境界のガラス板をすっかり熔かしてしまう人がある。

詩的な世界は現実の世界をぺろりとめくった先にある。これは俺の感覚だ。虚しく歩く夜道で見た水面、何やら陽気な時に見たテレビ番組。気づくと「向こう」の世界が顔を出す。
たしかに役に立たないかもしれないが、裏を返せば役に立つように作り込まれたのがこの現実世界なだけだ。本当は詩的で、よく分からない混沌とした「世界」を、よく分からない人々の間で誤解しあえるように、巧妙に作りこんで「社会」へ変えていく。
本当は名前も付かない感情を抱えているのに、「悩み」や「辛さ」や「虚しさ」などと、ほうほうのていでレッテルを貼りつけては安心している。

そんな態度を責める訳じゃない。
でも、と思う。時には詩的な世界を覗いておこう。抽象化を拒むあなただけの唯一の世界を手に取ろう。何も特異で奇矯なことを感じろと言うのではない。抽象化されない感情を、他人に納得されない理屈も時には大事にしようと言いたいのだ。
そうやって詩的な世界に遊びに行くことで、いつしか「穴はだんだん大きく」なり、現実と詩的な世界が入り乱れる。よっぽど馬鹿らしく、混乱しているように見えるかもしれない。筋も通っていないし、頭も悪くなったように見えるかもしれない。
それでも俺はこっちを選ぶ。
世捨て人になって詩的な世界に埋没するなんて嘘っぱちだ。社会に生きて、詩的な世界も目をかける。どっちの世界も大切だ。

最後に問いたい。これはあなたでもなく、俺にもう一度問いかけよう。
大学時代なんてもう随分前のことだが、その時の俺は今も問いかける。





詩的な世界も生きる勇気はあるか。

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