誤解を解いた先に理解がある
先ほどcakesの『幡野広志の、なんで僕に聞くんだろう。』の「京都の放火事件が起きて、世間からの誤解に怯えています」という記事を読んだ。
犯人の素性について流れてきた情報を目にして、怯えているという方からの相談に幡野広志さんが回答する内容だった。
幡野さんの文章にはいつも心を打たれる。
前に、Twitterであくびさんという方の「痴漢に安全ピン」の漫画を読んで、「過去に遡って救われた気がする」というnoteを書いたが、その時同様、今回も私はこの幡野さんの記事を読んで過去に遡って救われたような気がしたし、今後自分の心持ちをどう持てばいいのかの指標を頂いたような気がしたのだ。
私もこの幡野さんの記事にある、奥様とお子さんが受けたような出来事を電車や道端で受けた事が3度ほどあって(全部場所も人物も時期もバラバラで、全部見知らぬ人だった。それぞれおじいさん、おばあさん、若い男の人だった。突然の罵倒、あるいは頭をゲンコツで殴られる、みたいな事で、その時はビックリして声も出なかった。忘れられない出来事だ)でも、この記事を読んで「そういう事だったのかもしれないなぁ」と思ったのだ。
今は無料で公開されているので、興味のある人は読みに行って欲しい。あとで有料になるのであまり長い引用は避けたいのでここだけ(以下引用)。
何事もそうですが、何かを否定することは、同時に可能性を否定することでもあります。まったく可能性がないことを否定するならまだしも、精神疾患というのは誰にでも起こりうることです。それも万が一というレベルではなく、わりとあることだとおもいます。
ぼくは誤解を解いた先にあるのが、理解だとおもっています。そして理解が偏見を解消するとおもっています。逆にいえば誤解を解かなった先にあるのが、偏見だとおもいます。
幡野さんの言葉は飾り気がなく率直で、嘘がないという印象を受ける。それだけにこの言葉は本当に胸に刺さる。
私の中にも多分偏見はある。
きっと誤解もあって、理解しようと努力もせず、そして理解に至らぬまま偏見へと変容したものもある……のではないかな、と。
心に留めておくだけでもきっと何かの時に役に立つ。
浅薄な私へ、自戒を込めて。