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1950年代の国内外ドライブ紀行4本が収録された「空旅・船旅・汽車の旅」(阿川弘之)を読む

 昨日、明治通りのバイパスのことを投稿したので、今日は小説家の阿川弘之の「空旅・船旅・汽車の旅」(中公文庫)を紹介します。

 阿川弘之の作品では「南蛮阿房列車」などの鉄道に関連した作品しか知りませんでしたが、この本はAmazonのオススメで知って注文しました。その頃、クルマの紀行書を検索し続けていたので、それが察知されたのでしょう。Amazonサマサマでした。

 収録されている「一級国道を往く」は、1958年の晩秋にトヨペット・クラウン(1956年)に妻と担当編集者、出版社所属の運転手の4名で東京から東北を一周して戻ってくるドライブ紀行です。

 この紀行で、4名が難儀し続けなければならなかったのは悪路でした。

『国道、いたる所に、大山系の如き起伏があるかと思うと、深く泥水をたたえた小湖沼がある。岩手県から青森県へかけて、ジープをしばしば見るようになった。日本で自動車の遠出をするにはジープが最適だというのが、かねてから私の持論であったが、そのジープさえ難渋しているのを拝見すると、どうやら日本の旅には、水陸両用戦車が要るのではないかと考え直さなければならなかった』

 紀行の始まりのページには、この時の写真が掲載されています。アスファルト舗装ではなく、泥の道に雨が降り、深い轍が続いていっています。たしかに、これでは“水陸両用戦車が要る”と書かれている通りです。

 僕が運転免許を取った1980年代中頃には、すでにここまでの悪路は消滅していました。「昔は日本の道は悪かったんだよ」とベテランドライバーたちから教えてもらったり、本で読んで間接的に知っているくらいでした。

 1960年代に発行された伊丹十三のエッセイ集「ヨーロッパ退屈日記」の中で、日本の道路事情がヨーロッパと較べていかに貧弱であるかと書かれているのも読んでいました。

 阿川の東北一周の6日目は、新潟から長野を経由し、戸倉に泊まっています。

『本来なら、上越線に沿って新潟から越後湯沢、後閑を通って高崎、前橋、東京と国道17号線を走る筈であるが、この17号線は起点東京終点新潟と公称しながら、実際は途中の三国峠、自動車が通れないのである。現在、一級国道で自動車が通れないというのはここだけだそうだ。(国道17号線は、その後1959年6月に全通した)』

 関越自動車道が完成する前の、群馬県と新潟県の境にある国道17号の長い三国峠トンネルは、何度も走ったことがあります。自動車が通れなかったということは、阿川が書いているように、クルマでは東京方面から新潟には直行できなかったということなのでしょうか?

 巻末には、21年後の1980年に同じルートをボルボ264で再訪する紀行が収録されています。道路が整備され、悪路を走ることはなくなり、所要時間も大幅に短縮されました。途中、日本通運秋田支店で長距離ドライバーをインタビューしています。

『「どうですか。昔と較べると、ずいぶん仕事が楽になったでしょう」

「そうでもねえ」と、年輩の運転手が答えた。

「昔は道悪くて走れなかった。今は渋滞で走れねえ。走れねえのは昔も今も変らねえ」』

 アメリカに夫婦で留学中だった1956年に、1949年型のフォードで横断する紀行「アメリカ大陸を自動車で横断する」も収められていますが、短かすぎてモノ足りません。もっと読みたかったですね。

 作家としての想像力と阿川の行動が上手く組み合わさってクルマの運転ならではの面白さを出しているのが「おせっかいの戒め」です。自分のルノー4CVで都内をあちこち走る話ですが、落語の「黄金餅」のように東京の地名が連続し、情景が描写されていきます。

 関川夏央は巻末の解説で『まことに得がたい戦後の史料』と評しています。70年近く前の日本の道路事情やクルマに対する日本人の意識などが活写され、クルマ好きは大いに楽しめるでしょう。

 それにしても、全8本中の4本がクルマ紀行なのに、本の題名に“クルマ旅”という言葉が入っていないのが不思議です。それだけ、この時代はクルマを運転する旅が一般的ではなかったからなのでしょうか?

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