1963年夏、軽井沢の六本辻で ファセル・ヴェガ ファセリア1600 F2
かつてフランスに存在した高級車メーカー「ファセル・ヴェガ」を、ご存知だろうか?
1954年から64年までの間に、クライスラー製の大排気量V8エンジンを搭載した大型の2ドアクーペや4ドアセダンをパリで生産していた。豪華な内外装を持ち、最上級の仕上げが施されたモデルばかりで、生産台数も限られていた。僕も未だに国内外の路上で遭遇したことはなく、アメリカのペブルビーチ・コンクールデレガンスとイギリスのグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードに展示されていたものを1回ずつ見たことがあるだけだ。
その時に見たのは、「HK500」と「ファセルⅡ」という2ドアクーペだったが、どちらも大いに魅力的だった。時代背景にもよるけれども、その2台はクロムメッキを輝かせた大きなフロントグリルと縦型に配置されたヘッドライト、バンパーなどが同時代のアメリカ車を彷彿とさせながらも、造形が凝っていて、ひと目で大量生産品のキャデラックやリンカーンなどには認められない、繊細かつ大胆なフランス的な感性を漂わせていたからだ。
自分がリアルタイムで見たり、運転したことのある1970年代中盤以降のフランス車といえば、コンパクトで実質的なものが多く、そうでなければシトロエンSMやCX、アルピーヌA310などのような一気に未来的なデザインのものになってしまう。コンサバティブでデカダンな香りを漂わせる大型車、高級車というのものを知らなかった間隙をピタリと埋めてくれたのが、HK500とファセルⅡだった。
しかし、どちらのイベントでも恭しく芝生の上に展示されていた2台を傍から眺め続けることしか僕にはできなかったのが残念だった。それ以来、ファセル・ヴェガは時々思い出すことしかできない、夢想するに止まるしかない存在になったのだ。
ところが、まさに突然といった感じで僕の眼の前に現れたのである。現れたのは、1960年にファセル社が満を持して送り出した、小型版の「ファセリア 1600 F2」だった。とある高原有料道路の料金所のゲートにクルマで並んだら、眼に前に見慣れないクルマが料金を支払おうとしていた。その時はトランクリッド上のエンブレムは読めなかったが、ファセリアであることはわかった。ボディに対する小さめのキャビンや全体のフォルムもさることながら、リアフェンダーとテールライトの造形がファセリアであることを雄弁に物語っていたからだ。リアフェンダーのカーブに沿ってテールライトのメッキモールディングが融合しているように見える。これはもう、アールデコ様式だ。こんな形と仕上げのクルマなんて他に見たことがない。
その上、ピカピカだった。素晴らしいコンディションに見惚れてしまった。すぐにクルマを降りて話し掛けたかったが、ファセリアは軽快な排気音とともに走り去っていってしまった。
しかし、奇跡は続いた。その先の駐車場に、ファセリアは停まっていたのだ。しばらく待つと、オーナーの男性がファセリアのもとに戻ってきた。話し掛けると、オーナーの井上義郎氏は親切に車内やエンジンルームまで開けて見せてくれた。僕は自己紹介をして、後日に連絡させて欲しいと告げて、その日は別れた。
その数週間後、カメラマンの田丸瑞穂さんを伴って自宅を訪れると、すでに井上氏はagipの黄色いジャケット着て、ファセリアをガレージから出して外で待っていてくれていた。
当然だけれども、数週間前に初めて見た時のファセリアの美しさは変わらない。少し霧掛かった天気だったので、この日の方がメタリックレッドのボディカラーに深味が増して見えるようだ。
ファセリアが眼を惹き付けて止まないのは色や造形だけではない。丁寧な工作によるディテイルが醸し出す実に多彩な表情だ。
例えばフロントフェイス。上質なクロムメッキが施された格子状のグリルの繊細な仕上げにまず見惚れてしまうが、バンパーも見事な出来栄えなのだ。この時代の日本車やアメリカ車のフロントバンパーは鉄板を“コ”の字型に折ったものの両端を直角に曲げただけの棒のようなものだが、ファセリアは違う。複雑な断面をした多面体なのである。曲率の異なった複数の面が組み合わされ、両端も滑らかに丸められている。
オーバーライダーもボルトで固定されているのではなく、溶接されている。ヘッドライトの下のドライビングライトの光を遮らないために、バンパーはその円の三分の一ぐらいに相当する部分を抉られた造形が施されている。ドライビングライトの位置をもっと上方に設定するか、バンパーを二分割し、ドライビングライトと重ならないようにする方が簡単で確実なはずだが、あえて複雑な形にして、わざわざ手間を掛けている。なにごとにおいても効率化を優先し、無駄を省くことを至上の課題としている現代では考えられない贅沢な造りだ。
「これは手描きなんですよ」
メーターやスイッチ類が並んでいる眼の前のパネルは本物のウッドを使ったものだとばっかり思っていたら、専門の職人が筆を使って木目を描いたものだという。
顔を近付けて見てみたが、手描きされたものだとは思えないほど精巧で、趣きがあった。そんな手法がクルマに用いられていることに改めて驚かされた。後から調べてみたら教えてくれた人がいて、フォーボワ(faux bois、英語ではfalse wood)というルネサンス期から続く伝統的な技法で、高級家具などに用いられているそうだ。
そのダッシュパネルに埋め込まれているメーターやスイッチ類には完璧なレストアが行われていて、新車のようだ。さらに刮目させられるのは、そのパネルが右3分の1と左3分の1が内側つまりドライバー側に傾けられているということだ。視認性を良くするためだが、ここにも手間が掛かっている。
「ファセルの本業は工作機械や家具メーカーでしたからね」
ジャン・ダニノスというビジネスマンが1939年にパリで興したファセル社は戦後になって、パナールやシムカ、デラヘイ(いずれも、かつて存在したフランスの自動車メーカー)のボディ製造を請け負っていたが、1954年に初の自社ブランドによ完成車「ファセル・ヴェガFVS」を発表した。エンジンはアメリカのクライスラー製の4.5リッターV8を搭載し、オリジナルデザインで贅を尽くしたボディが架装された。
合点がいった!
昔のクルマはフレームがあって、その上にボディを載せ、そこにエンジンをはじめとするコンポーネンツを組み込んでいけば一台完成する。エンジンやトランスミッションなどのコンポーネンツは既存の大メーカーのものを流用できれば、金属加工を生業としている企業ならば、それほど難しくなくクルマを造ることができたのである。大衆車を安価に大量に製造するためには巨大な工場と生産設備が必要となるが、ファセル・ヴェガのような生産台数が少なくて、内外装に凝ることに希少価値を与える商品企画ならば勝算は見込める。
「ファセル・ヴェガは、ハリウッドで売るために造られたようなクルマですよ」
まだ、経済的に戦後復興の途中にあったフランスをはじめとするヨーロッパで売ることよりも、はじめからアメリカ輸出が目論まれていた。強力な大排気量クライスラー製V8エンジンや、豪奢な内外装の造りなどは戦後の繁栄を謳歌するアメリカ向きに他ならない。
「このクルマも、ヨーロッパに駐留していたアメリカ軍人がヨーロッパで購入してアメリカに持ち帰って乗られていました」
再び、アメリカからオランダに買い戻され、さらにスイスのクラシックカーオークションに出品されていたものを、2016年に井上氏が購入した。
「レストアはすでに2010年から2012年の間に行われていて、その写真や記録などもクルマに付いていましたから、後でお見せしますよ」
井上氏は不動産と美術に関する事業を手掛けていて、ずっと日本とスイスを往復していた。ジュネーブの高校とパリの大学を卒業したので、それ以来の知己もたくさんいる。
「実はファセリアを初めて見たのは軽井沢の六本辻で、1963年夏のことでした」
軽井沢は日本有数の避暑地で、富裕層が別荘を構えていたから、夏の間は貴重なクルマも多く走っていた。父親の別荘があった井上氏も、家族と共に夏になると滞在していた。
「その後大学生の頃、パリで松本弘子がファセリアを運転しているのを毎日のように見ていました。」
松本弘子とは、日本人初のオートクチュールモデルで当時ピエールカルダンの専属として務めていた女性だ。井上氏はそれ以来、ファセリアのことが気になっていて、前期のようにオークションに出品されている極上の個体を見付けて入手した。
「形の良さと、あまり知られていないのが魅力です」
井上氏のファセリアはソフトトップを持つコンバーチブルだが、ハードトップも装着できるようになっている。
「ebayでボロボロのハードトップが出品されていたのを買い、クルマがレストアされたドイツの工場に持ち込んで造り直してもらいました」
どうりで、ボディカラーとピタリと色が合っているわけだ。ポータブルのガソリン缶も色を合わせてもらった辺りは井上氏の洒落っ気だ。
ハードトップは太いボルトでボディに固定されているので、それをスパナで緩め、ふたり掛かりで外した。エンジンを掛けて、峠道へ向かった。
「結局、この欠陥エンジンが倒産のキッカケになってしまいました」
自社で設計製造されたが、トラブルが続き、大型車の販売不振もあってファセル社は1964年に倒産した。ボルボ製やBMC製エンジンを搭載したファセリアも造られたから、貴重な一台だ。
井上氏はファセリアを峠道で軽快に走らせ、紅葉の中を駆け抜けていく。現代の標準からすればコンパクトだが、走りと存在感は堂々としていて貫禄さえ漂わせている。走りっぷりと美が見事に融合している宝石のようなクルマだった。かつてのフランスにこうしたクルマを造るメーカーがあったことは歴史の一部となってしまったが、井上氏の貴重な話とともに触れることができたのは実に貴重な体験だった。
文・金子浩久、text/KANEKO Hirohisa
写真・田丸瑞穂 photo/TAMARU Mizuho(STUDIO VERTICAL)
(このテキストノートはイギリス『TopGear』誌の香港版と台湾版と中国版に寄稿し、それぞれの中国語に翻訳された記事の日本語オリジナル原稿と画像です)
文・金子浩久、text/KANEKO Hirohisa
写真・田丸瑞穂 photo/TAMARU Mizuho (STUDIO VERTICAL)
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