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【特別公開5】最終回 胃がんに苦しんだ三菱の総帥・岩崎弥太郎

書籍「秀吉の六本指/龍馬の梅毒  Dr.シノダが読み解く歴史の中の医療」の出版を記念して、本書から一部のエピソードを全5回にわたって特別公開いたします。

医師であり、直木賞候補作家の篠田達明先生が語る医療史エッセイ。最終回は「胃がんに苦しんだ三菱の総帥・岩崎弥太郎」です。


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胃がんに苦しんだ三菱の総帥・岩崎弥太郎

土佐藩の貧しい郷士(ごうし)の子だった岩崎弥太郎は負けず嫌いの少年時代を経て、筋骨たくましい青年に成長した。体力に恵まれ、酒も強かった。藩の長崎土佐商会で出会った坂本龍馬の大志に影響されて海運業に身を投じる。維新後は【九十九(つくも)商会(三菱商会)】を興し、台湾出兵、西南戦争の軍事輸送を一手に引きうけて巨万の富を得た。

明治14 年、47 歳のとき、長年のストレスと飲酒がたたって胃の不調に悩まされた。この頃、薩長藩閥政府は海運業を独占する【三菱汽船】を憎み、三井財閥と組んで【共同運輸】を設立、三菱と同じ航路を運行して対抗した。両者は海上輸送にしのぎを削り、社長の弥太郎も陣頭に立って社員を督励した。

それから3 年たち、胃痛と食欲不振はさらに悪化して大量の胃液を吐いた。伊豆の温泉で療養していたが、共同運輸との競争は激しくなるばかり。やむなく東京の別邸《六義園(りくぎえん)》に戻ったが、当時屈指の名医といわれた池田謙斉(いけだけんさい)(初代の東大医学部綜理)の診察を受けたところ、病名は胃がんで余命4 ヶ月と判った。

弥太郎は「わしも男だ。治るか治らんか本当の病名を教えてくれ」と迫ったが、謙斉は真の病名を知らせず、親族にも本人に胃がんと伝えることを禁じた。

病人の腹部は胃液の貯留で膨満し、太いゴム管で胃液を吸引する処置が頻繁におこなわれた。豪胆な弥太郎もこれには音をあげたが、闘志は衰えず、病床で社員の報告をうけつつ【共同運輸】に打ち勝つ戦略を練った。

明治18 年元旦、病床で正装した弥太郎は毅然として社の幹部と年賀の挨拶を交わしたが、その後病勢はいちだんと増悪(ぞうあく)した。胃液の吐瀉(としゃ)は毎日のようにつづき、2 月4 日には百回もの吐瀉がおこった。モルヒネ注射により一時、苦痛は治まったが、2 月6 日にまた吐瀉が始まった。7 日未明、付き添いの弟 弥之助が悄然としているのをみて、「病人のわしが自分を励まし、気を爽快に保っているのに看病人のおまえが気を塞いでどうする!」と叱るほど気力があった。

しかし7 日午後4 時、突然、呼吸停止したので医師団は何度もカンフル注射をおこない、ようやく呼吸が戻った。同日午後6 時、親族たちが枕元に集まると弥太郎は最後の力をふりしぼり、「わしは東洋男子として恥ずかしくない奮闘をつづけてきたがライバルとの闘争が解決せぬままこの世を去るのはいかにも残念だ」といい、三菱は嫡流を重んじるゆえ、長男久弥(ひさや)を後継者に、弟の弥之助は久弥の後見役につくよう遺言をした。

そのあと「ああ、腹の中が裂けそうだ。もう何もいわん!」と叫んで歯をくいしばり、宙を睨んだ。午後6 時30 分、医師団に一礼するかのように右手をあげて、そのまま呼吸が止まった。享年52。それから半年後、政府は【三菱汽船】と【共同運輸】を合併させることによって両社の争いを収めた。それが今日の【日本郵船】である。


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【書籍のご紹介】

金原サムネ

・著 者:篠田 達明
・定 価 :3,080円(2,800円+税)
・A5判・244頁
・ISBN 978-4-307-00488-6
・発行日:2020年5月31日
・発行所:金原出版

・取扱い書店はこちら

【著者紹介】
篠田 達明(しのだ たつあき)
1937年,愛知県一宮市生まれ。1962年,名古屋大学医学部卒業。愛知県心身障害者コロニー中央病院長,同コロニー総長を経て,愛知県医療療育総合センター(前 愛知県心身障害者コロニー)名誉総長。
著書に第8回 歴史文学賞受賞作『にわか産婆・漱石』や105回 直木賞候補作『法王庁の避妊法』などがある。