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【特別公開2】巨人症・宮本武蔵

書籍「秀吉の六本指/龍馬の梅毒  Dr.シノダが読み解く歴史の中の医療」の出版を記念して、本書から一部のエピソードを全5回にわたって特別公開いたします。

医師であり、直木賞候補作家の篠田達明先生が語る医療史エッセイ。特別公開第2回目は「巨人症・宮本武蔵」です。


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巨人症・宮本武蔵


宮本武蔵(1584?~1645)は幼名を弁之助といい、生まれつき成長が早かった。3 歳の頃は5 歳位にみえ、5 歳のときはすでに体格も知能も10 歳児をしのいでいた。大人になった武蔵は身長6 尺余寸、当時としてはずばぬけた巨漢であった。

武蔵がはじめて試合をしたのは13 歳のとき。相手の武芸者有馬(ありま)喜兵衛は弁之助をみて、「なんだ、子どもだったのか」と拍子ぬけしたところを、不意の頭突きを喰らわせ、持っていた薪で頭を殴りつけた。さらに渾身の力をこめて喜兵衛を持ち上げ、岩石落としで真っ逆さまに投げつけたという。かなりオーバーな話だが、プロレスラーまがいの膂力(りょりょく)があったことを思わせる。

武蔵といえば、なんといっても二刀流であろう。だが、たとえ木刀でも大小両刀を両手にもち、これを自在に操るにはよほどの膂力がなければ叶わない。二刀流は武蔵のような腕力の持ち主にして、はじめて可能な刀術であった。

武蔵が描いたとされる自画像が遺されている。顔面や顎が大きく、眉が濃く、眼球が突出し、手足が長い。脊柱は後方弯曲がおこり、やや猫背である。これは武蔵が脳下垂体の成長ホルモン異常による巨人症だったことを思わせる。

この自画像は、不動無我の境地をあらわす立禅の構えをとっているところで、武蔵は二刀をだらりとさげ、一見まるでやる気がないようにみえる。「なんだ、この構えは」と相手が油断したとたん、裂帛(れっぱく)の気合いとともに必殺の太刀が襲ってくるのである。

佐々木小次郎との巖流島の決闘を最後に武蔵は二度と殺し合いの勝負にかかわらなかった。門人たちに刀術を指南してはいたが、そのかたわら多くの書画を描き、仏像を彫り、刀の鍔(つば)を鋳(ちゅう)した。それらは単なる余技ではなく、刀術の理(ことわり)をもって極めた非凡の芸術であった。

巨人症の患者は小児期から青年期にかけて強壮であっても、中年期以後は下垂体の機能不全のために無気力となるケースが多い。武蔵も例外ではく、晩年は心身が急速に衰えた。物を忘れる、木刀が重い、素振りをすると息が切れる。赤樫の木刀を杖にして歩いた。やがて熊本城の西方、岩戸山にある霊巖洞にこもり、己れの兵法を伝えるべく『五輪書(ごりんしょ)』の執筆にとりかかる。1 年半を費やしてこれを書き上げたのち、武蔵は精根尽きて洞内で斃れた。没年は60 歳前後だろうか。

武蔵は有名人だけあって、その墓もざっと数えただけで、小倉の手向山、熊本の細川家の菩提寺、熊本龍田町と島崎町に東西の武蔵塚、そして岡山の宮本村と5 ヶ所もある。近年、熊本八代郡であらたに墓が発見されたというから、今後さらに武蔵の墓なるものがふえるかもしれない。


武蔵

宮本武蔵 自画像
熊本 島田美術館蔵


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【書籍のご紹介】

金原サムネ

・著 者:篠田 達明
・定 価 :3,080円(2,800円+税)
・A5判・244頁
・ISBN 978-4-307-00488-6
・発行日:2020年5月31日
・発行所:金原出版

・取扱い書店はこちら

【著者紹介】
篠田 達明(しのだ たつあき)
1937年,愛知県一宮市生まれ。1962年,名古屋大学医学部卒業。愛知県心身障害者コロニー中央病院長,同コロニー総長を経て,愛知県医療療育総合センター(前 愛知県心身障害者コロニー)名誉総長。
著書に第8回 歴史文学賞受賞作『にわか産婆・漱石』や105回 直木賞候補作『法王庁の避妊法』などがある。