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【特別公開1】幕末・明治のコレラ大流行

書籍「秀吉の六本指/龍馬の梅毒  Dr.シノダが読み解く歴史の中の医療」の出版を記念して、本書から一部のエピソードを全5回にわたって特別公開いたします。

医師であり、直木賞候補作家の篠田達明先生が語る医療史エッセイ。特別公開第1回目は「幕末・明治のコレラ大流行」です。

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幕末・明治のコレラ大流行

明治期、中国からわが国に侵入したコレラは大きな災厄をもたらした。ことに明治10 年代のコレラ大流行は多くの死者をだして悲惨なものだった。すでに安政5 年(1858)、アメリカの軍艦乗組員が開国まもない長崎にもちこんだコレラは太平洋沿岸を東へ進み、江戸にも広がって猖獗(しょうけつ)をきわめた。頑迷で保守的な江戸幕府でさえ、わが国最初の洋式病院(小島養生所、1861 年創立)を長崎に建設する許可を与えたのは、コレラ禍がいかに恐ろしいかを知ったからだといわれる。

明治10 年7 月、中国の日本領事館から日本政府へ至急の通報が届いた。福建省の港湾都市厦門(アモイ)でコレラが大流行しているとの急報だった。中国南西部の湾岸から九州方面には多数の船舶が往来する。コレラの予防手段に乏しい太政官(だじょうかん)はうろたえた。とりあえず外国から寄港する船舶の検査手続きと避病院(伝染病院)の設置を決めた。早速、外務省からイギリス公使館に船舶検査を申し入れたところ、なぜかイギリス公使は検査を拒んだ。外交交渉でもたもたしている間に、恐れていたコレラ患者が長崎に発生した。

明治10 年は西南戦争が終結した年である。西郷軍の反乱に勝利をおさめた政府軍は艦艇に帰還する兵士を満載して鹿児島を出港、10月1 日に神戸港へ引き揚げてきた。ところが意気揚々と凱旋する船中には頻回の下痢に悩まされる多数の兵士が乗っていた。コレラ患者の発生である。事実を知った港湾の役人たちは驚愕した。早急にコレラを鎮圧しなければ病毒が全国各地に広がりかねない。

港湾の役人たちは艦内にはいって、発病した兵士たちに港内にとどまり治療するよう呼びかけた。だが勝ち戦さに酔った兵士たちは役人の忠告など耳をかそうともしない。ほとんどの兵士が港につくなり波止場へ殺到した。いち早く故郷へ帰って勝利の知らせをもたらそうと、役人の制止をふりきり、それぞれの地元へ散っていったのである。

ほどなくコレラ患者は神戸、大阪、京都、大津と関西を中心に大量発生した。さらに翌明治11 年から12年にかけてコレラは全国各地を席捲(せっけん)する。山本俊一著『日本コレラ史』(東京大学出版会刊)によると、明治10 年には1 万3 千人の患者が発生し、このうち8 千人が死亡した。明治11 年の発生患者数は千人そこそこだったが、明治12 年には患者数16 万人、死者10 万人を超える大流行がおこった。コレラは国民にとって西南の役に劣らぬ大災厄となったのである。港湾など水際での予防作戦こそコレラの最大の対策であることを思い知らされた明治政府であった。


コレラ

明治10 年の錦絵「コレラ予防の心得」
部屋はよく乾燥させて空気は入れ替え、体や衣類は清潔にし、みだりに井戸水などを飲んではいけないなど、細かい注意が書かれている
(内藤記念くすり博物館所蔵)


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【書籍のご紹介】

金原サムネ

・著 者:篠田 達明
・定 価 :3,080円(2,800円+税)
・A5判・244頁
・ISBN 978-4-307-00488-6
・発行日:2020年5月31日
・発行所:金原出版

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【著者紹介】
篠田 達明(しのだ たつあき)
1937年,愛知県一宮市生まれ。1962年,名古屋大学医学部卒業。愛知県心身障害者コロニー中央病院長,同コロニー総長を経て,愛知県医療療育総合センター(前 愛知県心身障害者コロニー)名誉総長。
著書に第8回 歴史文学賞受賞作『にわか産婆・漱石』や105回 直木賞候補作『法王庁の避妊法』などがある。