見出し画像


子供は出来ない事があって当たり前だと言う勝手な大人の概念があるから、出来ない子供に対して大抵は寛容でいられるものだし、例外を除いては怒るとは違って、愛情を持って叱る事をしたり出来るまで寄り添ってみたりするものなのだろうけれど、

大人は出来ない事がある大人に対しては、大人は出来て当たり前と言う謎の概念を持ってしまっているが為に、相手に対して愛情どころか情のない怒りや配慮が一切無い様な見下しの念を持ってして接するものなのだと感じた。


自分を疑わなくなる大人は、自分の都合の良い解釈でしか物事を図る事が出来ず、一方通行の正しさしか見い出せなくなる。


多様性だの何だのと寛容であるかの如く流行りの文句があるけれども、いつでも信じたいのは自分を通した相手である事を先ず認識することからだと想える。

子供であろうが大人であろうが、出来る事や出来ない事があるのが前提の世界で、それをいつまでも理解せずに相手を責めたてる事とは、自分を責め続ける事と何ら変わりない。


すべては同じ事なのだと感じる、わたしはその心柄を間違えずに覚えていたい。


……

理想通りではないからといって
それを責めることは間違いです
相手の都合を自分の都合がいい解釈で
責める事はただの傲慢でしかないから

……

ずっとnoteしてなくて、でもメモは鬼のように溜まっていたりして今回はその1ミリくらいを久々に投稿してみた限りです。イヤハヤ穏やかでもあり忙しくもある日々の中で呼吸しております。イヤさせて頂いている、感謝です。


ああそうだ、
わたくしめはやはり、好きなのだよ綴る事が。

こころが満たされていく感覚と云うのかな、散らかって乱れた声が綺麗にまとまって笑ってくれる感覚と云うのか、書籍を手にする時も同様わたし、活字が好きすぎて本当に。

先日喫煙所でnoteを見てくれていた知人に、「アレって誰に向けて書いているんですか?」と問われて、ハッとした。なんて事があったのだけれども、

考えた事がなかったのよ。一度も。
綴らないと辛いまであるからただメモするくらいの勢いでずっと、幼少期から変わらずにしてきた事だった。

少しだけ考えて咄嗟に「じぶんにむけてかな」だとかカッコイイ様な恥ずかしい様な言葉で答えてしまったのだけれど。よくよく考えたらばそうでしかないなとも思うけれども
だがしかし、


もちょっとユーモアたっぷりでセンスある回答の引き出しがあればな笑。振り返るとそう感じる。マジで場面によって違う自分が出てきちゃうから調整というのか、コントロールが出来ていなくて情けない。かたじけなす。

そう最近大晦日の大掃除くらい部屋を整えていたのだけれども、夏は苦手で冬が大好きで、だのに滝汗が心地よくて何度もお風呂に入るものだから梅干しくらい全体がシワシワになるのだけれども、そう、この感覚よ。
集中する事が快感でもあるのかも知れない。

ああやはり綴り始めると止まらなくなるのだよね我は。真夜中のテンションで産まれたわたしの言霊はおそらく朝になると後悔に近しい公開処刑くらいの勢いに変身するから顔面真っ赤やんのやつになるのだと

知っていながらに載せちゃお。ゆるちて。


読んでくださった皆様方ありがとうね。
キマリモンクって片仮名に変換するとなんか変な虫かバンドマンの名前に見えるよねわたしだけかな不思議。だけれどもいつもの決まり文句とやらで閉じむ事とします。



どうか健やかで、お元気で
どうかご無事で。

すこしまえのわっち卍


  • またね⦿

2023.7.10 金田友希




2021年1月1日より毎日投稿しています。 目を通した先のその心に触れた皆様方の人生が『生きていてよかった』と想える有意義なものになるお手伝いが出来たらば、これほどに嬉しい事はありません。何もない日だって特別、綴る事が私や貴方の拠り所であるように。 またあしたねという最期の手紙。