都市部の人が、自然を消費の対象としてではなく、居場所として捉える為にはどのような問いが必要か?

そもそも都市部にいる人は、生活=消費だと無意識的に認識している可能性がある。
なぜなら、都市部の地域的役割は、消費地であり、一切の生産がない場であるからである。
生産地では、元々は地産地消、自給自足的に生産を行っていたが、次第に余剰が生まれ、貯蓄出来たものが、他コミュニティとの交易によって、より物質的豊かさを追求した。

そして、各地域に生まれた多様な産業が、お互いに交流する場として発達したのが都市部であり、生産者(百姓)が直接売りにいくのが難しい為、生まれたのが町人(商人)という職業である。
江戸時代の大阪梅田あたりは、まさしく町人の街であり、人口の9割以上が町人だったという。
都市部は、日本だけでなく、都市部近郊、地方で生産されたものを売り買いする為に持ち込まれる市場的役割の場だった。

これは、都市部以外に、生産者、生産地がある前提の中で保たれる仕組みであるが、
現在は、生産者の平均年齢は70歳、後継者も圧倒的に足りない。
国内産業として、自立して10年後に存在しているか怪しいレベルの産業であるが、無くなってはならない産業であることは間違いない。

しかし、なぜこのような状況を引き起こされてしまったのか。

一つには、戦後、モノがなかった為、モノの売り買いを目的としていた都市部に、労働力の売り買いを目的に集まったことがある。
そして、0リセットからのスタートにより、石炭から石油への設備移行が容易であった、朝鮮戦争による特需など多くの要因が重なることで、高度経済成長となり、都市部に集まった労働力が一気に回転し始める。
元々、6割以上が一次産業人口が一気に減り、二次産業、三次産業へ移行していく。
そして、海外からの輸入品が増えることで、より一次産業が減っていく。
今や農家の人口は、130万人(人口の約1%)。

生産と消費の量は、本来釣り合っている必要があり(生産が上回っている方が良い)、
都市部で消費だけを行っている者は、生産者以上に価値のあることを行っているという大義名分がなければ成立しない社会システムだが、現状は生産者以上に価値のあることを都市部で行なっているだろうか。

他国からの輸入により、物質的豊かさが余りある状態だと錯覚し、生産能力が1%以下になろうとしている日本社会に必要なこととしては、労働力の売り買いの場となった都市部から、人が増えすぎて余剰として生まれた労働力を、消費だけでなく、本質的な生産に向けることではないかということである。

これは農家に戻ろうということではなく、人間が入ったことにより変化した自然環境を維持、改善していくことや、学びの場にしていくこと、モノを生産するだけでなく、コトを生産していく仕組みを新たに作っていけないだろうか、ということである。

コトを生産するとは、言い換えれば、目に見えないものや体験に意味づけし、価値として循環させることで、結果として、その循環から生まれる余剰が、モノとして生産され、それを小さな範囲で循環させていく、そのような循環が日本各地で生まれたら、今の日本社会の仕組みの課題を解決できないか。と想像している。

その為には、消費だけを生活だと考えている都市部の人たちの意識を変え、コト消費ではなく、コト生産を価値にしていけたら良い。

コト生産を価値に
これからの面白い問いとして考える。

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