何も知らない

経験や知識が増えてきて、同じようなパターンを何度も体験すると、
それはそのようなものとして認識し、「普通は」とか「一般的に」、
「基本的に」のような形で常識が作られてくる。

しかし、アインシュタインの下記のような名言にあるように、

Common sense is the collection of prejudices acquired by age 18.
「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。」

私たちが“当たり前“だと思っていることは、時と場によって常に変化しているはずである。

食に関して言えば、
虫を主食としている地域からしたら、腐った大豆を食べる日本は異常である。

エネルギーに関して言えば、
木を日常から産業まで、多くの場面でエネルギーとしていた時代には、今よりもずっと自然災害や干ばつが多かった。このままでは、飢餓貧困がなくならず、持続可能ではないという流れの中で、木を使わずに莫大なエネルギーを生み出せる化石燃料が生まれた。

当たり前だと思っていることを問い直し、現状の課題を解決したり、
世界の多様な構造を理解していく。

数字や未来の概念がないピダハンや、国家という枠組みから逃れられているゾミア。

私たちが“当たり前“だと思っているものが当たり前ではなく、
もっと言えば、私たちよりもずっと幸福で、しっかりと生きている人たちである。

私たちが、mustやshouldだと思っていることは、決してそうではない。
かもしれないと問い続ける姿勢の中でしか新しいものは生まれないし、受け入れられないと思う。

都市部での働き方、過ごし方は、多くの場合、ルールという枠組みを前提にしており、
それを守れないものは、異常という認識になる。

自然は、色々な場面で、ぽい法則はありそうだが、ぽいだけでほとんどが理解できていない。つまり、非常である。

都市部にいると、ぽい法則をルールとして規定し、それが正解だと偏見として増えていく。
しかし、多くの場合、それはぽいだけであって、正解ではない。偏見である。

それを問い直す機会がなければ、それが全てとなり、正義にもなって、
異常で非常な行動につながっていく。そして京アニのような事件が起きる。

このような存在を生まない為にも、問い直す機会、つながりを持つことが、
健全な社会を構築していく為には、必要だと感じる。

どんな歳になっても、自分は何も知らないと思わせてくれる体験や仲間が、いることの重要性を感じる。

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