間(ま)

この世界を捉えるとき、特に日本人としてこの世界を捉えるとき、それをそれとして捉えるのではなく、それと共に同時に周りの余白も一緒に捉えることで、それ自体を受け取るのではなく(受け取れないのだが)、そのものの“間“を捉えている気がする。

日本人は、それ自体よりも、“間“が合っているかどうかを気にする文化がある気がする。
だからこそ、意図や目的に反することなどがある場合、“間違っている“という表現をするのだと思う。

その上で、この世界を両義的に捉えるとは、意と間を捉えることに他ならない。
意と間とは、意識、意志、意味と時間、空間、仲間のことを指しているが、これらを味わう時間を暇と呼び、暇を味わうための思考が、両義的思考である。

日本に民主主義が入ってきて、体裁は議会制民主主義として導入されたが、個人や社会という概念が国民に浸透せず、いまだに人権とは何なのかを理解せずに、世間という“間“を読むことで、生きる。そして、世間の“間“が読めない人は、“間違っている“とされる。

これがダメかどうかという評価の話ではなく、シンプルに日本人は、
中身なんて興味がなく、常に“間“を気にして生きている国民なのではないかということである。

その上で、日本人に合った“間“という感覚を大切にする為には、両義的思考が重要なのではないかと思う。

なぜなら、両義的思考は、両サイドからの視点で物事の捉えることで、間を作る。
その生まれた間は、言い換えるならば時間的、空間的、余裕や余白である。
それは、間を捉える主体者が、対象に対して、意識や意志、意味を探究する姿勢を生み、その対象の“意と間“を感じることができる。

その対象がもし自分だとしたら、自分の時間的、空間的現在地を知るということにも繋がるのではないかと思う。

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