自と他を分ける要素は
昨日からの続き
昨日は、
「自分の中には自しかいないため、それを分けることはできない。
自を分ける為には、自以外(他)を知る必要がある。
つまり、この世界、自然、社会を理解しようとする、尊重し合おうとする過程に、
私(自分)は存在している。」
という仮説を結論とした。
その上で生まれる問いは、
尊重し合おうとする過程で、どのポイントから自を実感できるのだろうか。
結論から言えば、“自己の不可能性“と“世界の複雑性“の実感である。
これら2つの実感には、意識的な理解と体感的な理解が必要である。
自己の不可能性とは、概念的にも、物理的にも、生物的にも、どの角度からも自己を定義することはできないという前提とする。
概念的な角度から言えば、自己は自己だけでは存在せず(構造主義的な意味でも)、自己は地球、社会全体に対して、“正しい“影響力を持つことは決してないということを深く理解することである。“正しい“かどうかは、時代やタイミングによって一時的に判断されるものであって、普遍的に正しいかどうかというのは恣意的である。
物理的な話で言えば、私たちは空気や水がなければ死んでしまう。
空気や水は科学的に作れるようになってはいるが、投入エネルギーに対して出力エネルギーが上回らない技術力の中で言えば、間違いなく、それらを生み出す自然(自ずから然る存在)がなければ、生きることはできない。
空気が必要な理由は、精神的な話ではなく、身体的な理由で、
私たち人間のエネルギー、ATPを生み出すミトコンドリアの為に必要なものである。
細胞にミトコンドリアがいなければ、私たちは一切の活動、何なら産まれることすらできない。
そして、そのミトコンドリアは、元々は好気性細菌(酸素をエネルギー源とする細菌)に由来するものであり、人間が持つDNAとは全く異なるDNAを持つ。そんなものが私たちの細胞にいてくれるおかげで生きていける私たちだが、ミトコンドリアは、私だろうか?
数百秒、ミトコンドリアに酸素供給が止まれば、私たちは死ぬ。
どんだけ賢くても、運動神経が良く、イケメンだったとしても、
ミトコンドリアが機能しなくなれば死ぬ。
私たちの存在において必要不可欠な組織(器官)は、私かといっても、私ではない気がする。
ではミトコンドリアも含み、自分のDNAを持つ細胞は、私か?
という問いを考えてみても、細胞だけで自分とは捉えられない。
私たちの身体が、水でできている、もっと言えば、酸素窒素水素炭素などで出来ていると言われても、それらも私ではないと思う。
そして、人間を構成するすべての原子を集めたとしても、人間は作られないし、私たちは作られない。
では改めて、自分とは何か、その中で自分を探すとは何か。
と考えたとしても、ここにはきっと答えがない。
では、自分で生まれる瞬間も、死んだことも実感できない、私だけでは、存在を実感できない私たちは、何を持って、生きながら“私“と言えるのか。
“自己の不可能性“の実感とは、自分だけでは、この世界にどの角度から見ても存在しない、非常にちっぽけで無意味な存在であるということを深く理解することである。
自分が何をしようがしまいが、何の影響力もない。
しかし、これは言い換えれば、自分だけでなく、すべての存在において言えることであり、他の生物も、物体も、すべての存在は、その存在だけでは存在せず、自己の不可能性を包含していると言える。
だからこそ、もっと自由に、それぞれが生きていって良いのではないかと思う。
こんなにちっぽけな存在が、存在できていることだけで非常に(文字通り)“有り難い“ことであり、そんなに“有り難い“存在をもっと尊重すべきだと強く思う。
お互いに、本当に“有り難い“存在だと。
この実感、尊重の関係性が見えてきた時、
小さいながらに、確実に自と他を分けるポイントが見えてくる。
自己の可能性をどんだけ追い求めても、多様な他の可能性の中では差別化できない。
なぜなら、可能性の方向には、勝手に多くの人、ものが集まり、画一化していく為である。
しかし、自己の不可能性は、他の不可能性との競争にさらされず、真似もされにくい為比較にならず、結果、それが個性となる。
個性が欲しい≒自分探し
だと思うが、個性とは、自己の不可能性を実感、理解することで生まれる(残っている)自分であり、ちっぽけで何ら役には立たないだろうそれ自体のことなんだと思う。
世界に複雑性に関しては、明日に回す。
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