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路上宴会ゴミだらけ、天知る地知る己知る

 長い休みが終わり始業式が始まると、若者の自死のニュース。若い命を自ら絶つ話を聞くのは辛い。
 かと思えば、若者が中心となった路上飲みのニュース。飲むだけではなく、宴会をして、空き缶やゴミをまき散らす。
 ニュースの世界だけではない。近くの公園のベンチの周りには、夜の宴会をした後のゴミの山。飲み物のカスや食べ物のカス。コンビニ袋もころがっている。せめて袋に入れて捨てておけよ。散らかしっぱなし。空き缶の中にアルコールは見えないから、そんなに不良ではない高校生が散らかしたものだろうか。あるいは中学生か。
 こんなにゴミを散らかして恥ずかしくはないのだろうか。
 天知る地知るおのれ知る。誰も見ていないと思っても、天は見ているし、地も見ている。それよりも、自分自身が見ている。恥ずかしいことだと自分がわかっているのだ。
 壁に耳あり障子に目あり。自分以外の誰かも見ている。見られて恥ずかしくないのか。
 いや、恥ずかしいとは思っていないのだろう。一緒に宴会している仲間内では、ゴミを散らかすことが正義になっている。ゴミをゴミ箱へ捨てること、ゴミを集めることが悪になっている。
 路上飲みは訪日外国人にも多い。日本人が路上宴会をやっていたら路上飲みはOKだと思ってしまう。日本は路上で宴会できる国になってしまう。
 外国では路上飲みは禁止されている国が多い。飲んだだけで逮捕されることもある。本国ではできないことが日本ではできる。かつての日本人の、旅の恥はかき捨て旅行と同じだ。そんな外国人の姿を見て他山の石とはできないのか。他人ひとのフリ見て我がフリ直せとはならないのか。
 「」という言葉は日本から消えてしまったのだろうか。日本の社会はどうなってしまったのだろう。


 冒頭の話に戻る。日本の自殺率がある時を境に増えたという話を聞いた。
 それは派遣社員が増えて、終身雇用が崩れていった時だという。
 日本は村社会で、村の共同体の中で暮らしていたので、自分勝手なことはできなかった。逆に言えば「絆」があった。村社会が崩れた時には、終身雇用の「会社」が村の代わりとなった。会社が村に代わるコミュニティとなった。
 互いに「絆」があり、自分は一人じゃないと思えるので、会社のために働き、自死することも少なかった。
 村社会が嫌で逃げ出した自分が言うのもおかしな話だが、村や会社には「絆」があり、それが自死を思いとどまらせている部分があると言うのだ。
 それが悪い方向に行けば、正義を忘れたビッグモーターや日大のアメフト部になる。仲間の「絆」を勘違いしてしまう。悪いことも、仲間内では正義となる。
 路上宴会も同じだ。仲間内では宴会が正義となる。


 路上飲みのニュースを見ながらマスコミにも違和感を覚えた。
 パトロールに回っている人たちの、「やめていただけませんか」「お願いします」という丁寧な態度と、パトロールに反抗する姿をかっこいいかのように報道している。悪いことをしても丁寧に対応してもらえる。
 こんな報道を見ていれば、路上飲みは別にたいして悪いことではなく、むしろかっこいいことだと思ってしまいそうだ。
 路上宴会はダメだと主張したいだろうに、実際は路上飲みを推奨しているかのように見える。
 ニュースのモザイクも同じだ。モザイクがかかった人物は、どれだけ犯罪行為をしていても、そんなに悪いことのようには見えない。


 マスコミは何を訴えたいかをはっきりすべきだ。
 日本をルール無用の国にしたいか、恥を知る国にしたいのか。
 「路上宴会がいいか悪いかは視聴者で判断してください」は違うだろう。「ゴミを散らかすな」。その程度の主張をしてもバチはあたらないだろう。
 逆に主張しないのは報道機関として恥ずかしいことではないか。何のための報道だ。

 報道機関でもない一般人がこうして主張することで、同じ思いをする人が増え、社会が少しでも変わってくれたらうれしい。
 

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