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自分の目で見て自分で考えよう、AIを過信するな

 しばらくnoteを続けていると「あなたにおすすめ」の記事が出てくる。AIが選んで画面に出てくるのだが、その記事が同じような内容のものばかりになっている。
 「あなたにおすすめ」の私は、これかい。私という人間は、AIにとってはこの記事か。
 他の人はどんな記事がお薦めになっているのだろうか。もっといろんな人の考えを知りたい。でもAIは限定して、「これだけ見なさい」という。ネットで記事を見ると、AIは、お薦め記事しか出してくれない。お薦めのコメントが並ぶようにしてくれる。

 noteを見ていて棚園正一さんの「学校へ行けない僕と9人の先生」を知った。これもAIが薦めてくれたのだろうか。

 あれっ、前に本屋で見たことある本だと思い、本屋へ行くと、もうない。
 本屋の本もコンビニの商品も、すぐに新しいものに変わる。コンピュータで管理された商品のサイクルがとても短いのだ。
 数件の本屋を回り、やっと見つけた(本当は棚に並んでいないので店員さんに聞いたんだけど)。


 本屋へ行くと、自分の見たい本の周りには、あれっと思うような本もある。ネットで買おうと思えば見つけることができない。ネットでは必要な本と、それに関連した本しか画面に出てこない。「あなたの好みはこれです」と、自分の好みまでAIに決められてしまう。
 本屋では、いろいろな本があり、興味を覚える本もある。

 知らない言葉をネットで調べると、その言葉の意味しか出てこないが、辞書で調べると、その言葉の周りの他の言葉も目に入る。そっちにも興味を引かれることがある。
 図鑑で何かを調べると、その周りに、全然別の記事があり、そっちの方に興味を持つこともある。

 本屋では、店によって並べている本が違う。ベストセラーはどこも同じ本が並んでいるが、他の本は本屋によって傾向が違う。特別コーナーなどは特に店員の好みが出る。へ~と思うジャンルの本もある。


 今、企業や教育機関はAI導入に躍起となっている。
 AIを利用するのはいいことだが、AIに利用されては本末転倒だ。
 何かに集中すれば脇目も振らなくなる日本人は、心して取り組まなければ大きな過ちを起こしてしまう。


 かつて、田中角栄は日本列島改造論を述べ、日本は高度経済成長とともに「改造」された。
 そこで失った自然は簡単には回復しない。
 原発事故の放射能もまだ消えない。何百年も何千年も残る。
 戦後は空襲ではげ山となった山に、人里の近くにも遠く離れた山奥にも至る所に杉の木を植えた。当時は、杉が日常で使われ、戦後復興に杉の消費が見込まれていたのだ。
 ところが杉の代わりに、プラスチックが使われるようになった。使われることがなくなり、杉林を手入れする人がいなくなり、スギ花粉だけが大量に放出される。初めは小さな木で、花粉を飛ばす量も少なかったのに、どんどん杉の木は大きくなる。
 大きくなると根が木を支えられなくなり、ちょっと雨が降ると、すぐに土砂崩れを起こす。手入れする人がいれば、間引きをしていく。
 小さいものは大きくなり、時代が変われば仕事をする人も職業が変わる。杉だけを植えなくてもよかったのに。
 どんぐりなどを作る広葉樹林も杉林になり、動物たちの食べ物がなくなった。人里に動物が下りてくる原因の一つに杉林があるのではないか。一度実行したことは、元に戻すことが非常に難しい。



 ゆとり教育が行われた結果、日本の学生の学力は落ちたままだ。
 とはいうものの、ゆとりの前には、何から何まで点数で評価する偏差値教育があった。偏差値絶対主義を是正するために「ゆとり」が考えられた。
 そして今度は、学力の低下を是正するために「ゆとり」が見直される。
 それに付き合わされる、実験台となる子どもたちは大変だ。

 ゆとりも偏差値も、それが悪いわけではない。使い方の問題だ。どちらも極端すぎる。日本人は極端に走りすぎる。
 人間には、学力もゆとりも必要なのだ。


 コロナ禍の今、ウレタンマスクがいいと言われれば、それが町中にあふれる。
 不織布でなければならないと誰かが言えば、不織布マスク警察が現れる。不織布マスクをつけていない人間は犯罪者扱いされる。そしてそれを一般の匿名の誰かが攻撃する。攻撃してもよいという雰囲気が作られていく。
 本当に日本人は極端が好きだ。
 それが戦争への道を歩んだ理由でもあろう。政治家や軍部の意見だけで国民が心から動く訳がない。国民の意識が戦争に向いていたからこそ、指導者がそれを誘導したのだろう。


 日本人は極端だ、と私も決めつけている。
 そうじゃないという意見もあるだろう。

 それはともかく、「あなたはこうだ」と決めつけられるのはまっぴらだ。

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