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謹賀新年、手を合わせ何を願うかコロナの正月

めでたさも中くらゐなり おらが春

 カウントダウンも興味がないので、そんなに正月がめでたいとも思わなくなってきた。
 小林一茶のこの句が作られたのは、57歳の時。当時の57歳はもう老人。けれど結婚が遅かった一茶は、妻と幼子を持ち、あばら家に住み、正月の門松もない生活をしていた。そりゃあ、めでたいとは言えないだろう。コロナで外にも出られない今年の正月も、めでたさは中くらいだろう。

 一茶は、小さいものに目をやった。

やれ打つな蠅が手をする足をする
我と来て遊べや親のない雀
雀の子そこのけそこのけお馬が通る

 大きなめでたさはないが、小さなしあわせはどこにでもあった。

 おらが春の「春」、立春は2月4日頃、旧暦の正月である。2021年の立春は2月3日(水)。
 めでたい時が「春」である。一茶は正月を詠っている。

 ちなみに、季節の変わり目が節分で、立春の前、2月3日頃が節分になる。2021年の節分は2月2日(火)。

 正月には神社にお参りして、手を合わせる。

 手を合わせる、合掌の形は、インドから起こったようだが、「合掌」という言葉からわかるように、仏教由来のものだ。神社でも手を合わせ、お寺でも手を合わせる。神社の場合は、合掌ではなく、柏手(かしわで)といい、手をたたく。

 手を合わせるといえば、忍者が印を結ぶときも手を合わせる。手を合わせ、人差し指を立てる形だ。手を合わせることによって神秘的な力が得られると考えたのだろう。忍者の場合は、九字を切るといい、九字法(九字護身法)という。伊賀忍者では、臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前「りん・ぴょう・とう・しゃ・かい・じん・れつ・ざい・ぜん」の九文字の印がある。手を合わせるとパワーが出るのだ。

 神社へお参りすると、賽銭を上げ、金額に見合った(!?)お願いをする。今年は、コロナを早く収束させてくださいという祈りをする人も多いのではないか。
 けれど、本来は神社はお願いをするものではない。

 古代の日本人は、人知を超えたものに対し、畏怖畏敬の念を持ち、それに対して祈ったのだ。お願いをするなど畏れ多い。神はそんな下俗な存在ではない。
 会社員が、自分の上司に、ああしてくださいこうしてくださいとお願いばかりしないだろう。神様は、あなたの上司よりも低い存在なのか。

 神には祈ることしかできなかった。それが、いつの間にかお願いすることが当たり前になった。お賽銭やお供えは、上司に送る賄賂ではない。願いを叶えてもらうためのものではない。感謝の気持ちなのだ。

 時には占いもする。神の前で占う。願いがかないますようにと、何かを願うのではない。どの結果になるのか占うのだ。豊作になるか不作になるかを占うのだ。豊作だけを祈るのではない。不作になることもあると、その運命も受け入れたうえで占うのだ。占いとは、そういうものだ。

 自然の結果には従うしかない。不幸があれば、それを受け入れ、乗り越えなければならない。自然に従いながら生きていくのだ。それが古代の日本人だった。

 個人が個人の欲望のため祈祷をするようになると、祈祷師が現れた。お金をもらって願いをかなえようとする。神社も祈祷をするようになる。祈祷してもらうには、かなり高いお金を払わねばならない。そしてお参りすると、賽銭と共にお願いをするようになった。それでいいのか。願うだけでなく、まずは自分で努力してみよう。

 コロナ禍で初詣には行けなくても、今年も新年を迎えられたことに感謝し、心の中でそっと手を合わせたい。


 タイトル写真はヤドリギ。ヤドリギは、西洋では、神聖な木とされる。冬の真っ白になった世界で青い葉をつけており、生命を象徴するものとされた。冬のめでたい木なのだ。
 ところが日本では、あまりそういうことは言われない。葉を落とした冬枯れの木も愛でていたかつての日本人は、葉のある木も、葉を落とした木も同じように愛していた。自然を破壊し、人間の住みよい社会を作ってきた人々と、自然とともに生きた人々の違いだろう。
 そんな東と西の違いも、どんどん消えていった。

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