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イタチがイタっち

 夕方、歩いているとイタチがいた。しかも、街の中で。

 人通りのある道の横に、誰もいない小さな公園がある。セメントで囲まれたその壁に沿って、茶色の動物が走っていた。薄茶色で、猫より小さく、細長い。「イタチだ!」すぐにわかった。
 何十年ぶりかに見るイタチだが、子どもの頃にはよく見ていた。見間違えるわけがない。しかも、ご丁寧に、その動物は、走っている途中で立ち止まり、こっちへ顔を見せた。まあるく小さな顔は、どう見てもイタチだ。
 子どもの頃、ニワトリ小屋にイタチが入り込み、ニワトリが襲われたことがあった。小さな穴があれば、そこから侵入するので、穴をふさがなければ、ニワトリは襲われっぱなしだ。そんな身近な存在だったが、街へ出てから、イタチを見ることもなくなった。
 公園の周りはマンションが建ち並んでいる。こんな所にイタチがいる。

 ずーっと前のことだが、深夜の繁華街で、大きなドブネズミが疾走するのを見たことがある。こんな街の中に、こんな動物が住んでいるんだと思ったことがある。どこでどう生きているのか、街の中でも大型ほ乳類が生息している。


 イタチの仲間は、オコジョやイイズナがいる。外国では、ミンクやフェレットもいる。
 街にいるイタチは、前から日本にいるホンドイタチではなく、少し大きい外来生物のチョウセンイタチだそうだ。このイタチは、石垣の隙間や床下をすみかとし、天井裏にもいるそうだ。主食はネズミだが、ハトや昆虫も食べる。最近はソーセージやタマゴも食べるようになっているそうだ。まあ、田舎のイタチはニワトリを襲っていたけど。

 イタチは身近な動物だったので、イタチに関する言葉も多い。
 「かまいたち」は漫才師ではなく、何もないのに急に皮膚が切られることをいう。かまいたちという妖怪が傷つけたというのだ。草を刈るカマのような力を持ったイタチだという。もともとは太刀たち=刀で切られたような傷ができることからできた「カマイータチ」という言葉らしいが、カマを持ったイタチの妖怪画からイタチのイメージが定着したそうだ。
 イイズナ(イズナ)にしても、超能力を持っていると考えられていた。「飯綱いづな使い」といわれる呪術者が、イズナを使って呪術を駆使くししていたといわれる。
 「イタチの最後っ」という言葉もある。困ったときに非常手段にうったえることをいうが、敵に襲われたイタチは臭いをこいて逃げる。そこからできたことわざだ。
 「いたちごっこ」という言葉もある。同じようなことをくりかえしてきりがないことをいう。これは江戸時代の子どもの遊びで、手を交互に重ねていくもので、きりがないことからできた言葉だそうだ。この遊びは、いたちごっこ、または、ねずみごっこというが、なんでイタチとネズミが出てくるのだろう。誰かご存じないか。
 昔の家の中では当たり前にネズミが走り回っていたが、ネズミと同じようにイタチは子どもたちにとっても身近な動物だった。

 そんな身近だった動物がいなくなった。いなくなったと思っていたけど、どっこい街の中で生きていた。とはいうものの、数が減っていることは事実だ。自然がどんどん消えていく。

 自然が消えていくだけでなく、自分自身も変化している。深夜の繁華街をうろつくこともなくなった。昼の街や自然の中を歩くことも少なくなった。神戸の街は、海辺の風景と山の風景がまったく違う。昔はけっこううろついていたので、季節の変化を感じていた。でも、今はあるくのもしんどい。自分自身が変わってしまったのだ。
 この文章のタイトルだって、ダジャレにもなっていないので、昔だったら恥ずかしくて公表もしなかっただろうに、恥ずかしげもなく、イタいタイトルでも平気で公表してしまう。情けない。老化だ。ちょっと考えなくっちゃ。

 イタチだって街の中でがんばって生きている。自分ももう少し自然の中や街の中を歩いてみよう。そうすると新しい発見も刺激もあるだろう。
 

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