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アリアドネの伊藤

 どこまで続くとも分からない通路を照らすのは二本の松明のみ。行く先は暗く、背後もまたすぐに暗闇へと包まれる。前後感覚を失わせる無限の回廊のなかではたして自分はどちらから来てどちらへ向かっているのか。しかし、今、テーセウスを悩ませているものはこの迷宮を攻略することができるかということでもこの道の先に待ち構えているであろう怪物を倒すことができるかということでもない。
「テーセウスさん、どうかされましたか」
「何でもない。いいから早く案内してくれ」
「はい、はぐれない様に気を付けてくださいね」
 テーセウスの先を歩く男こそが悩みの種であった。一体どうしてこうなったのか、テーセウス自身にもよく分かっていない。ただ思うのはこの男さえいなければ、と。
 この男に会うまでのことを思い出す。

 アテナイから吹く風をまっすぐに受け黒い帆が大きく膨らんでいた。船首に立つテーセウスは髪を揺らす潮風も舳先が砕きしぶきを上げる波も意に介することなくただ一点を見つめ続けていた。水平線に微かに見えるクレタ島をとらえているテーセウスはこれから待ち受けているであろう困難とそれを乗り越えた先の自分に思いをはせていた。
 アテナイの民は生贄のために苦慮していた。それはクレタの王ミノスに向けて少年と少女を七人ずつ怪物ミノタウロスの胃に収めるために捧げられるものであった。怪物ミノタウロスは恐ろしい存在で半人半牛の姿、身の丈は人の倍ほどもあり性格は獰猛で何者も太刀打ちのできないという。それゆえに一度入れば出ることの叶わない大迷宮の最深部で飼われている。
 多くの者はこの話を聞き身を震わせ我が子が生贄に選ばれないよう神へ祈るしかなかった。だからこそ、テーセウスはミノタウロス退治に名乗りを上げた。これこそが我が使命、迷宮を踏破し怪物を倒すことこそ英雄たる自分にふさわしい役目であると。テーセウスは父の反対を押し切りクレタ島へ向けて船を出した。
 船は順調に風を受け目的地も間近となった。テーセウスの胸の内に恐怖や緊張といったものは一切ない。あるのは功績をあげ英雄として民衆から賞賛を受け未来永劫語り続けられるであろう己の輝かしい姿のみである。
 ミノスにつくと王からの歓待を受けた。
「そなたがアテナイ王アイゲウスの子テーセウス殿か。そなたの数々の冒険譚は余も耳にしている。此度はどのようなわけで参られたのか」
「ミノス王、私が来たのは他でもない我がアテナイの民を苦しみと憂いから解放するためである」
「余にはそなたの言いたいことが分からぬ」
「私が来たのはアテナイの罪なき子らを食い物にする怪物ミノタウロスを退治するためである」
「そうであったか。余もミノタウロスには苦心している。しかし、如何なテーセウス殿と言えどあの怪物を倒すのは不可能だろう。何人もの勇士を向かわせたが誰一人として帰ってこなかった。あの怪物はラビリンスに閉じ込めておくしかないのだ」
「このテーセウスに不可能などない。ラビリンスを攻略し見事ミノタウロスを退治せて見せましょう」
「なんと頼もしい言葉だ。そなたのために今日は宴を開こう。しばらく休養されよ」
 ミノス王の宮殿にしばらくの間テーセウスは逗留しミノタウロス退治のための英気を養っていた。その間にミノス王の娘アリアドネとの仲を深めた。
 アリアドネは筆舌に尽くしがたいほどの美しい女であった。髪の一本一本、爪のひとかけに至るまで美の女神アプロディテの祝福を受けたかのような美麗な乙女を酒宴の席で見つけたテーセウスはすぐさま声をかけた。
「清らかな乙女、美神に愛されし乙女よ。私はアテナイの王アイゲウスの子、テーセウス。あなたの名を」
「存じ上げておりますテーセウス様。私はクレタの王ミノスの娘アリアドネと申します」
「アリアドネ殿、よろしければ私の杯に祝福を頂けませんか」
「今宵はあなたのための宴、喜んでお酒を注ぎましょう」
「ありがたき光栄です」
「数々の冒険をされてきたと伺っています」
「此度のことに比べれば児戯に等しいかもしれません」
「ご冗談を。ですが確かにラビリンスは危ない場所です。そこはかの名工ダイダロス様によって建てられたもので、複雑怪奇の大迷宮です。そして中で待ち受けるのは恐ろしき怪物ミノタウロスです」
「すべて承知の上です」
「さようですか。流石テーセウス様、噂に違わぬ英傑でいらっしゃいます」
 テーセウスは今夜この女を抱き、冒険を終えた暁にはアテナイへ連れ帰ろうと心に決めた。英雄譚に美女は必要不可欠であり、アリアドネはまさにふさわしい女と見えた。大したことは無い、と言いつつも誇らしげに自身の冒険話を次から次へとアリアドネに語って聞かせながら酒をあおるテーセウスと時折頷きながら殊勝な態度で聞いているアリアドネ。
 宴が終わり、それとなく今夜部屋に行くということを伝え部屋の場所を聞き出しておいたテーセウスはさっそくアリアドネの部屋へと向かうことにした。
 テーセウスは中庭を通りかかった際、木立の下で何か小さな黒い影がもぞもぞと動いていることに気が付いた。目を凝らすとそれはフクロウがカラスの死骸をむさぼり食っている場面であった。カラスの姿は夜の闇に溶けてはっきりとしなかったがフクロウのその昼間は見せぬ鋭い眼光や血に汚れた嘴、肉に食い込む爪ははっきりと見て取れた。せっかく気分がよかったのにけがらわしいものを目にしてしまったとそそくさとその場を後にした。女人と夜を謳歌するのに時間を無駄には出来ない。
 「テーセウス様、お待ちください」とアリアドネが声をかけて聞きたのは翌朝のこと、テーセウスがラビリンスに向けて出発しようとしていたところである。
「何でしょうか、アリアドネ殿」
「何の用意もなくラビリンスから抜け出すことは出来ません。あなた様が無事にラビリンスからお戻りになれますようにこちらをと思いまして」
 テーセウスはなるほどこの女が糸か何かを持って待っていてくれるのだろう。そして、自分は帰りにそれをたどればよいと。そう思い手を差し出した。
 しかし、テーセウスの手に握られたのは皮の厚い手であった。
「はじめまして、よろしくお願いします」
「何者だお前は」
 テーセウスは謎の男と握手をしていた。
「テーセウス様、この者は伊藤です」
「イトーですか?」
「はい、伊藤と言います」
「この者はラビリンスの最深部までの道順を覚えております。ですので伊藤の案内に従って下されば無事に帰ることができます」
 テーセウスは素性の分からぬ男に従うということが気に食わず業腹で仕方なかったが、アリアドネの手前であったので大人しく従うことにした。
「アリアドネ殿のお心遣いに深く感謝いたします。ではその者を連れ無事にミノタウロスを倒してまいります」
 これがテーセウスと伊藤の出会いであった。
「では僕が先に進みますので後をついてきてください」
「伊藤、テーセウス様を頼みましたよ」
「はい、お任せくださいアリアドネ様」
 どうして自分がこの男に頼まれる側なのだ、正しくは英雄であるこのテーセウスが頼まれる側であろう。
「はぐれないように気を付けてください」
「分かっている」

 こうしてテーセウスは伊藤に不満を持ちながらも後を歩くしかない状況を続けていた。
「おい、お前。伊藤と言ったな。聞き慣れぬ名だがどこの生まれだ」
「僕ですか? 東の方です」
「東? リュキアの民か?」
「いえ、もっと東です」
「ではフェニキア人か。なぜフェニキアの者がアリアドネに仕えているのだ」
「まあいろいろありまして」
 先程からいろいろと尋ねてもはっきりとしない答えしかしないこの不審な男をアリアドネはどうして自分の道案内に付けたのか。そもそもどうしてこの男がラビリンスの道を知っているのか。本当に気に食わない。
 まさかだまされているなんてことはあるまいな。いや、きっとそうに違いない。アリアドネをだまして付け入り、自分にも何か害をなすに違いない。そうでなければどうしてこんな凡夫の助けを受けなければいけないのか。道案内もどうせ適当であるのだろう。そうと決まればこんな男に従う道理はない。テーセウスは伊藤に気づかれないように別の分かれ道へと入った。
 そしてテーセウスは道に迷った。そもそも目的地がどこにあるかも分かっておらず、右も左もわからず、どうにもならなくなっていた。テーセウスは道を失ったために栄光をも失うことに気付き呆然自失となった。地面にへたり込み暗闇を見つめている。
 そこを伊藤に発見された。
「居た居た、はぐれないように気を付けてくださいって言ったじゃないですか。見つからなかったらどうしようかと思いましたよ。さあ、行きましょう。もうはぐれないでくださいね」
「……ああ」
 テーセウスは礼も言わず、不貞腐れた表情で伊藤の後に続いた。まあ良い帰るまでの辛抱だ。
 そうしてさらにしばらく歩くと伊藤が立ち止まった。
「着きました。この奥です」
「そうか、ここまでくればお前に用はない。下がっていろ」
 そう言うとテーセウスは伊藤の肩を掴むとぐいっと引き下げ前に出た。表情は活き活きとしたものに戻っており先程のことなどなかったかのような態度で奥へ進む。確かに道案内では世話になったかもしれないが所詮は道案内である。これから先が本題、怪物ミノタウロスを倒すことこそ自分にしかできない使命でありそれさえ為せば道中のことなど関係ない。そう考えているテーセウスは堂々とした足取りでミノタウロスの前へと躍り出る。剣を抜き名乗りを上げる。
「我が名はテーセウス。アテナイ王アイゲウスとトロイゼン王の娘アイトラの子。怪物ミノタウロス、貴様を討ち滅ぼすために参った。さあ、その姿を現せ」
 テーセウスの声が反響する。それに呼応するように地響きが鳴る。ずんずんと重く広がる音が徐々に近づき、松明の明かりの届くところまでやってくる。
 ミノタウロスが現れた。
 テーセウスはそのおぞましき怪物を前に声を出すことさえできなかった。家ほどもある巨体、丸太のような手足、鋭い角を持った牛頭、血に飢えた目。これが怪物、噂に違わぬ、いや、それ以上の威圧感に恐れをなした。ミノタウロスが唸り声をあげる。
「ひええ」
 テーセウスは尻もちをつき、みっともなく後退した。
「アテナイの守護神アテナ様、どうかお守りください」
「大丈夫ですか、テーセウスさん」
 テーセウスの願いを聞き入れたのは神ではなく伊藤であった。伊藤は特に恐怖を感じている様子も無く脇に立っている。
「大丈夫なわけないだろう」
「それなら代わりに倒しましょうか?」
「何でもいい、勝手にしろ」
「分かりました」
 すると伊藤は剣を抜き素早い動作で切りかかると、あっという間にミノタウロスを倒してしまった。ミノタウロスの死骸の上に立ち剣を握る姿は堂々としたものであった。
「終わりました。長居は無用ですし戻りましょうか」
 テーセウスは立ち上がり服に付いた砂埃を払う。
 この男は一体何なのだ。ラビリンスの道を知り、ミノタウロスを倒す力を持っている。まさか、こんな男がいたなんて。それに今日自分は何をした。この男に道案内されながらラビリンスを攻略しあまつさえ、はぐれたところ助けられる。ミノタウロスと遭遇すれば自分は情けない声を上げて怯えているだけだった。どうしてだ。自分はアテナイ王の息子であり、将来は王位を継いでアテナイ王になり、数多の冒険を乗り越えてきた英雄のはずであるのに。こんなどこの生まれかもわからない男に英雄面をされたうえに自分の役割を全て奪われなければいけないのだ。
 俺が英雄だ、と憎しみのこもった目で伊藤の背を睨みつける。
 そう、自分が英雄であり、自分がラビリンスを攻略しミノタウロスを打倒したのだ。この男にすべてを肩代わりされたのではない。そんな英雄譚が存在して良いはずがない。
 息絶えた牛の頭の目に映るのはテーセウスと伊藤の他にない。剣を抜いたテーセウスが伊藤の背後に忍び寄る。

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