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学生ディレクター成長記~茂木遥さんのドキュメンタリー番組制作~

 「関西大学社会学部4回生の茂木遥です、千里ニュータウンについてインタビューを協力いただきませんか」。手にマイクを握り、まるで獲物を狙うように、道端で茂木遥さんは街ゆく人に声をかけている。街頭インタビューにはコツがある。例えば、カメラに気づいて遠回りしない人なら、成功率が高い。ビデオカメラが入った3キロほどのバックを持ち運ぶことにも慣れた茂木さんは、ドキュメンタリー番組制作をする関西大学社会学部メディア専攻・齊藤潤一ゼミの学生だ。

撮影機材にこだわらない茂木さん

 2019年4月、関西大学に入学した。もともと美術系の大学に行きたかったが、両親が普通の大学への進学を望んだため、自分のやりたいことができそうな関西大学社会学部のメディア専攻を選んだ。彼女の映像制作の種はここでまかれた。1回生の映像基礎実習という講義で、槇谷茂博監督の『私は白鳥』を見た。この作品は、足の折れた白鳥を我が子のように世話する白鳥好きのおじさんを描いたもので、今でも作品を見た感動が心に残るという。「私もこういうドキュメンタリーを撮りたいと思った」と茂木さんは振り返る。
 私が茂木さんと知り合ったのは2回生の秋のことだ。文章演習の授業で、たまたまインタビューし合うペアになり、そのとき彼女が私と同じようにドキュメンタリー制作への興味を持っていることを知った。驚いたことに、2人とも想田和弘監督の観察映画『精神』にはまっていた。「ナレーションがないのは珍しくて、これを見て精神病患者と健常者の境が分からなくなった」と茂木さんは語った。インタビュー中、熱心に耳を傾ける様子が強く印象に残っている。
 茂木さんは、「ドキュメンタリーは現実を被写体にしているからこそ、映画みたいな作られたものではない不完全さや善悪を決めつけない余地が魅力だ」と話す。私も彼女に共感する。世界は単純なものではない。善人と悪人を簡単に見分けることはできない。良否の判断は時代の流れによって、当然変わる。これは、ドキュメンタリーが私たちに教えてくれたものだ。想田和弘監督はドキュメンタリーの魅力について、著書『なんで僕はドキュメンタリーを撮るのか』でこう書いている。「先を予測できない五里霧中な感じ、あるいは、目的地を知らずに色々なところへ勝手に連れていかれる圧倒的な無力感こそが、ドキュメンタリーの魅力の核心にある気がする」。

 2021年春、茂木さんと私は同じゼミに所属することになった。ドキュメンタリー制作という縁から、仲も深まった。茂木さんの一つ目の作品は『オタクですが、何か?』というタイトルだった。ドキュメンタリーとは何なのかまったく分からず、通らない企画案は何本もあった。
 ゼロからの模索。一番撮りやすい題材は自分と自分の周りなのではないか。想田和弘監督のはじめてのドキュメンタリー映画『選挙』の制作のきっかけも、大学の同級生が川崎市議会の補欠選挙に出馬したことだった。そこで、茂木さんも自分の親友を撮ることにした。しかし、人物像の描き方に苦戦した。親友が話下手だったため、どうすれば人物像をうまく捉えるのか、ずっと悩んだ。インタビューのシーンをなくして描いてみたものの、思った通り、薄っぺらい印象になってしまった。作品完成後、撮る側と見る側の違いを強く感したという。翌年1月の発表会で、齊藤先生から指摘され、反省した。「おしゃべりが得意じゃないなりに、もっと向き合って話を聞いたらもっと人物像に深みが出たかも」。茂木さんは取材対象を変に意識して、「失礼のないように」と思ってしまい、深く質問しないことがよくある。しかし、避けた質問は、人物像を深めるキーポイントになることもある。「心を鬼にしても、もっとセンシティブなところまで聞かなくちゃダメだ」と茂木さんは語った。

栽培

 4回生の春、桜が散ったころ、齊藤ゼミの学生たちは、新しいドキュメンタリー番組の企画書を提出する。茂木さんは、千里ニュータウン(『はじめてのユートピア』)、美大生の芸術展(『クソくらえ芸術』)、ネット陰謀論にはまる人々(『アルミ・キャベツ・ホットケーキ』)という3つの企画案を提出した。その中で、茂木さんが千里ニュータウンを選んだのは、住んでいる地域への関心があったからだった。
 千里ニュータウンは、1958年、大阪市の北一部の千里丘陵に、日本で初めて大規模な都市計画として造成された。当時、日本の人口急増期の影響で住居が足りなくなり、左藤義詮元大阪府知事は「昭和41年度までに、理想的な文化都市を建設する」と発表した。計画規模は、面積1,160ha、人口約15万人に及んだ。
 小学一年生のとき、茂木さんは両親の仕事の都合で神奈川県から千里ニュータウンの南西にある桃山台に引っ越してきた。その9年後、桃山台の隣の竹見台に住むようになってから、何気なく16年間が過ぎた。当初は、ただ単に便利な場所という認識だったが、現在の千里ニュータウンは住民の高齢化や建物老朽化の問題を抱えるようになった。しかし、生まれてからずっと千里ニュータウンに住み続ける人がいたり、一度ニュータウンから出ても数年間後戻る知り合いもいた。茂木さんは、こうしたニュータウンの魅力や歴史に関心を持ち、『はじめてのユートピア』の取材が始まった。
 茂木さんが取り上げる主人公の一人は吹田市南千里にある千里ニュータウン情報館で働く曾谷博之さん(60歳)。2歳から現在まで、ずっと千里ニュータウンに住んでいる。私が同行した日は、曾谷さんへの3回目の取材だった。茂木さんと曾谷さんは、同じ地域に住んでいるため、年が離れても話が尽きない様子だった。親しい人との思い出がある千里中央公園の展望台、安いものが買えるスーパー、友だちと一緒に遊んだ公園。時折冗談を交えながら、笑い声が上がる和やかなムードだった。インタビュー中、茂木さんは相づちを打つのがうまい。2人の会話から、この土地への愛が伝わってきた。

曾谷さんにインタビューする茂木さん

どしゃ降り

 もちろん、取材は順調なことばかりではない。茂木さんは、質問の仕方によく悩んでいた。映像に重要なポイントを引き出すような質問をするのが難しいという。ニュータウンの活性化活動について取材していたとき、お祭りを運営する地元の人から「お祭りの運営は大変だが、地元の活性化のために頑張っている」という言葉が欲しかった。しかし、「運営は大変ですよね」という質問ばかりしていたため、話が広がらない。このことを齊藤先生に相談すると、「○○ですけど、どうですか」という具体的な答えが返ってくるような質問をするようアドバイスされた。「○○ですよね」のような質問は「はい」、「いいえ」で答えてしまうため、話の展開が難しい。齊藤先生の意見を受け入れてから、状況は大きく改善した。
 金木犀の匂いが強くなったころ、取材は終わりを告げた。取材当初、茂木さんはこんなにニュータウンの活性化活動に多くの人が関わっているとは思わなかった。茂木さんは「なんか漫画みたい。こんな地域愛があって」と語った。南千里にある喫茶店で座っていた私たちは、店のそばに、小さい黄色の花が咲いているのに気がついた。「金木犀の香を嗅ぐと、よく千里ニュータウンを思い出すね」。子ども時代の思い出やその街でしたさまざまな経験を持っているから、「きれいな思い出の土地のままであってほしい」と茂木さんは語る。
 今回の撮影で、茂木さんは「自分が目を向けたら、こんなに世界が広がっていることにびっくりした」と話した。成長期でどしゃ降りがあっても、撮影の楽しさは忘れていない。

南千里にある喫茶店のそばの金木犀

花が咲かない

 学校のイチョウが黄色く染まる頃、関西大学では「地方の時代」映像祭が開催される。今年のキャッチコピーは「それでも明日へのタネをまく」。11月12日の贈賞式で、各賞が発表される。茂木さんは1回生から、映像祭の熱心な視聴者だった。ドキュメンタリー制作のきっかけとなる『私は白鳥』も2019年度の放送局部門・入賞作品の一つだ。今年、視聴者から出品者となった茂木さん。映像祭の「市民・学生・自治体部門」にエントリーするため、5月から準備し始めた。『オタクですが、何か?』の問題点を反省した上で、再取材し、編集を行った。「皆の作品はすごいから落ちても当たり前」と思っていたが、結果が発表されるとき、手のひらには汗がにじんだ。結果は落選だった。結果発表後、グランプリ作品『熱海土石流-なぜ盛り土崩落は防げなかったのか-』(静岡放送)が上映された。真実を追求するため、頑張っているディレクターの姿を目にした茂木さんは、「もっと頑張らなきゃ」とつぶやいた。映像祭の会場から出た茂木さんは、「自分の本当に興味のあることで、自信を持ってこれは傑作だと思えるような作品をいつか作りたい」と語った。悔しさのなかにも、明るい笑顔があった。

次の開花期

 テレビへの広告出稿量の減少のあおりをうけ、番組制作費が削減されている。中でも苦境にあるのが、金はかかるが視聴率に結び付きにくいドキュメンタリーだ。深夜放送が多いドキュメンタリー番組は、若者の間で人気がない。17年間、テレビ局で働いた齊藤先生は「(若者が)見てないのは事実。でも、若い大学生に見てもらうと、ちゃんと面白さが伝わると最近思うようになった」と指摘する。
 1回生のときから、ドキュメンタリーに夢中になる茂木さんはその中の一人ではない。千里ニュータウン情報館で、1968年に日本映画新社が制作した『千里ニュータウン 生きている人工都市』を見たときの奇妙さを今でも覚えているという。2年間の撮影を通して、茂木さんはドキュメンタリーを撮る意味を再考した。「自分たちが見た景色を何十年か先の人たちも見ることができるから、自分たちが撮って、データに残ることはすごく意味があると思う。体験を共有するためのツールとして、ドキュメンタリーはすごく有用」。
 茂木さんにとって、ドキュメンタリーは「映画館に見に行くもの」から「作るもの」へ変わった。立場の違いにより、物事への見方も変わってくる。若者がカメラを持ち、周りを記録することを励ます齊藤先生は、「見るのと実際に作るのは全然違う。自分が撮るからこそ、分かるものがある。大人と取材交渉して、いい社会勉強になる。それは、若者がドキュメンタリーを撮る意味としては、結構大きい」と語った。
 映像は過去と現在、そして未来をつなぐ。1回生の「種」から始まり、日々成長している茂木さんは2023年4月から、MBS企画に入社する予定だ。彼女は、ドキュメンタリー番組の制作を志望する。「いつか毎日放送『映像』シリーズを撮ってみたい」。いつも元気な笑顔をしている茂木さんがこれから、メディア業界で何を巻き起こすのか、注目していきたい。(鄭智之)

MBS企画の最終面接が終わった茂木さん