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みんなそれぞれ宇宙を持っている!?

InstagramやTwitterなどのSNSやYoutube、Amazonなどのサービス、それからニュースサイトなどさまざまなメディアでAIが導入されることによって、ユーザーが興味がありそうな内容のものが表示されたり、リコメンドされるというような事が一般化し、自分と似たような考えを持った人に共感し、SNS上でフォローしたりすることも一般化しています。

デジタルネイティブ世代、Z世代は、そんな世界が当たり前で、むしろ興味がないものを表示されたり、リコメンドされたりする事に逆に不満を感じてしまうことが通常の感覚になっています。(私も同じ感覚ですw)

一方で、そんな自分の興味のある考えや思想ばかりがインプットされる事によって情報が偏り、それによって社会の分断や断絶が起こると指摘して問題提起を起越している人たちも多くいます。

SNSで自分の興味関心にしたがってユーザーをフォローする結果、似たような意見が集まる現象を指して、まるで閉じた小部屋で音が反響する物理現象に例えて、エコーチェンバーと表現されます。

また、AIのアルゴリズムがユーザーの検索履歴やクリック履歴を分析し学習することで、個々のユーザーにとっては望むと望まざるとにかかわらず見たい情報が優先的に表示され、ユーザーの観点に合わない情報からは隔離され、まるで自身の考え方や価値観というバブル(泡)の中に孤立するという情報環境を指してフィルターバブルと表現したりしています。

エコーチェンバーもフィルターバブルもどちらも似たような概念でユーザーの認識の範囲が偏って限定的になる事を問題提起するためにバズワード化されています。

前置きが長くなりましたが、今日はその事について考えてみたいと思います。

そもそも私たちの認識できる範囲は限定的

エコーチェンバーやフィルターバブルを問題とする前に、そもそも私たちは世界をありのまま認識できているのでしょうか?

それ以前に、私たちが観ている世界というのは誰から見ても絶対的な世界なのでしょうか?

一見すると私たちは誰もが共通の同じ世界、同じ宇宙に住んでいると考えています。世界や宇宙は唯一無二で、みんなにとって宇宙はたった一つで同じものを見ていると思っています。

でも果たして本当にそうでしょうか?

実は私は世界の本質はもしかしたらそうではないかもしれないと最近思うようになっています。

私たちの観ている世界というのは、自分の観念から創られており、自分が認識しているから世界が存在しているのであって、世界が先にあって、認識が後というのは錯覚なのではないかと私は考えています。

私の世界に対する見方は量子力学でいうところの多世界解釈に近いのかなと思います。専門家ではないので量子力学の世界観は詳しくは分かりませんが、量子力学の伝統的な解釈では、粒子が左に行く確率と右に行く確率がそれぞれあるとします。これに対して、多世界解釈では粒子が左に行く世界と右に行く世界の両方が分岐して別々の世界として存在し、それぞれの世界にいる事はその世界にいる粒子にしか分からないという世界観があります。

私たちは毎瞬毎瞬、数ある並行世界の中をどれかを選択しながら存在していて、同時に別の並行世界を選択した自分もいるという可能性があるのではないかと考えています。さらに時間というものも実は幻想で、まるで映画のフィルムの一コマ一コマが別々に切り離されているように、もしくはまるでパラパラ漫画のように本当は毎瞬毎瞬全く別のもので、それを連続したものと思っているのは私たちの記憶の成せる技で、毎瞬毎瞬私たちによって現実が創られているのかもしれないと思うのです。なので、そんな世界が仮に現実であれば、映画「君の名は」で主人公が時空を超えて出会うというようなことは、あり得ない話ではないのではないかと思うのです。時間というのはあるようでなく、私たちが概念として時間を創ってはいますが、あるのは今、ただこの瞬間があるだけで過去も未来も全てこの瞬間に存在するとも言えるのかもしれないと思うのです。

かなりぶっ飛んだ解釈でマイナーな解釈だとは認識していますが、実際に並行世界を行き来したとしか思えないような体験をされている人もいるので、そういう世界観も一つの見方として、また可能性としてもあり得ると思っています。

しかし、そんな独特な解釈を出さなくても、私たちの認識できる範囲は当然ながら限定的です。誰もが世界の全てを認識できているわけではありません。人によって認識範囲の大小や認識している領域に違いがあり、それぞれの認識の中で世界を見ています。つまり一人一宇宙が存在すると言い換えても良いかもしれません。

エコーチェンバーやフィルターバブル自体は問題ではない

なのでそういう意味では、SNSやAIのアルゴリズムが登場する前から誰もがエコーチェンバーやフィルターバブルの中にいると言えます。つまり言葉は悪いですが、悟りの世界にいる人を除いて、誰もがみんな偏見の世界の中にいるのではないでしょうか?

なので、フィルターバブルやエコーチェンバーという言葉が生まれる前から、世界は分断・断絶されているようなものなのです。もちろんSNSやAIアルゴリズムの導入によって、それがより広がる方向に進んでいきますが、私はそれはさほど問題ではないと思っています。もちろん分断を望んでいるわけでもありません。

SNSやAIによって元々あったものがただ表面化されただけであって、それは自然な流れとして起こっていて、時代の流れの中で、そうなるべくしてなっている必然の流れだと思うからです。

私たちの観念は、私たちが世界をどのように理解し、現実をどのように経験するかに影響を与えます。元来私たちはそれぞれが持っている観念があまりにも違う人とは一緒にいることが出来ず、出会う事すらないと思います。

問題は、私たちは往々にして誰もがフィルターバブルの中にいるのに、他のフィルターバブルにいる人をその中から出そうと懸命です。あたかも自分のフィルターバブルの中に正義があって、こっち側のフィルターだけに正しさが存在すると思っています。紛争や戦争はそうしたエネルギーの中から生まれると思います。

しかし、そもそも正しいとか間違っていると言うのは、どういう事でしょうか?

正しいや間違っているというのは単なる価値観の表現です。自分の信念体系の中で形成された価値観の反映です。

この世で絶対的な正しさや正義などというものは存在せず、本当は自分の観念というフィルターにおいてポジティブと捉えるかネガティブと捉えるかの違いがあるだけではないでしょうか?

問題はフィルターバブルやエコーチェンバーそのものではなく、自分以外の考えをジャッジし善悪で物事を見てしまい、自分目線で相手を裁いて相手にそれを強要しようとしてしまう事だと思います。

観念によって、感情が生まれます。
観念は自分や世界に対する定義づけです。
観念の定義に従って、ジャッジする事で怒りや悲しみなどの感情が湧いてくるのです。

本来の自分ではない他所から植え付けられ、受け入れた本来の自分を表現するものとは別の観念によって定義づけがなされ、そこからそれを基準にジャッジというものが生まれ、それによってネガティブな感情が生まれてくるのではないかと思うのです。

おまけですが、このフィルターバブルやエコーチェンバーの問題とフェイクニュースやデマというのは、また別で、切り離して考える必要があると思います。フェイクニュースやデマは悪意があって故意でやっているのであれば、それは問題ですが、ただ受け手側はいずれにしてもそれを広い視点で吟味する必要があるとは思います。

また陰謀論という言葉もバズワードになっていますが、問題は、施政者にとって公にされるのが困ることを隠蔽していることに本質的な問題があり、その内容に関してはやはり受け手側として自分のフィルターと自分軸を持って広い視点で吟味すれば良いのではないでしょうか?

物事にはさまざまな側面がある事を忘れてはいけないと思います。

世界は多極化してくる

現実的に世界はどんどんと分離してきています。大きくはポジティブとネガティブの二極化で、どんどんとそれが開いていき、現状に対してポジティブに捉えている人は日々楽しく喜びに満ちてワクワクして過ごしていき、そしてそんな世界に生きています。その人の周りにいる人も、そういった物事をポジティブに捉える人たちが集まってきます。

いつもネガティブなものの見方をし、ネガティブなエネルギーで人をジャッジし、裁いて、不平不満、文句ばかり言っている人は、愚痴ばかり言うことに心地よさを感じる人たちが集まってきます。ポジティブな人はそんな人の近くには近づきたくないので、どんどんと離れていきます。

そうやって世界は文字通り分かれていく事になっていくと思いますし、現在進行形でそれは起こっています。良いとか悪いとか正しいとか間違っているとかではなく、どちらの世界も自分のあり方で決まり、とても自由な選択が許されています。決してネガティブが悪いと言っているわけではなく、ネガティブな状態でいるという選択すら自由に出来るほど、この世界は自由であるという事です。

ワクワクするという感覚は本来の内なる自分が発するエネルギーが身体感覚として表れたものです。それは自分だけの固有でオリジナルで唯一無二なものです。しかもそれは、それ自体が本来誰かを傷つけたり貶めたりする事はありません。例え、それで誰かが嫉妬したり、悪意を持ったとしても、それは相手の捉え方の問題で、こちらのコントロールできる範囲の事ではありません。その相手は望むのであれば相手のペースで本当の自分を表現していけば良いのであって、自分が望まないのに自分を表現しなければならないということでももちろんありません。

でももし自分自身を表現している人に対して、ネガティブな感情を抱く人がいたとしたら、その人も本当は本来の自分を表現したいと心の底では思っているということの裏返しを単にその人自身の感情を通じて自分自身に示しているだけなのではないでしょうか?そう言った意味では、ワクワクして自分を表現することは、誰にとってもポジティブな影響を及ぼす事になるのではないかと思っています。

エコーチェンバーやフィルターバブルはそれ自体問題ではないと思います。最終的に自分はどんな宇宙の中にいたいのか、どんな世界にいたいのか。それは自分の在り方で決まります。どんな選択も自由で許されていますが、どんな宇宙にいるかは毎瞬毎瞬の自分自身の観念によって変わってきます。結局私は、この世界は誰もが自分の認識の中で、自分の宇宙を持っているのではないかと今のところ考えています。

人をジャッジしたり裁いたり強要したりする事ではなく、違う考えを持っていても、相手の宇宙を尊重し、共感しあえたら幸せだなと思います。

非常に読みにくい内容だったと思いますが、最後までお読みくださいまして、誠にありがとうございます。


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