第11話 短パンと進路相談|2016年5月
三年ぶりに会った室田剛(ごう)は、まだ初夏だというのに黒々と日焼けしていた。かつては青白い顔の大学院生だったと言っても誰も信じないだろう、と果穂は思った。だが、よく見ると当時の面影が、問いかけるような深い瞳の色と時折見せる寂しそうな表情の中に残っていた。
「どうぞ、入って」
果穂がマンションのドアを開けて促すと、室田は感嘆のため息を漏らした。
「きれいな部屋だな。お店みたい」
「お店だよ」
「え? お店なの?」
室田が間抜けな声をあげたが、果穂は構わず中に入って、いらっしゃいませと言いながらスリッパを出した。
「なんだ。見せたいものがあるって、マンションに連れて来られたから、てっきり果穂の部屋に呼ばれたのかと思った」
「これが見せたいものなの。わたし、リフレクソロジーのお店を始めたの」
「リフ……?」
「足裏のマッサージ。まあ、説明するより体験してもらう方が早いから。こちらへどうぞ。ちょっとこの短パンに着替えてもらうけど。ふくらはぎくらいまで触るから」
「脱げばいいんだろう? パンツでいいよ」
「え、待って。ちょっと……」
室田は靴下とジーンズを脱いでトランクス姿になると、ソファーに勝手に座ってフットバスに脚を突っ込んだ。
「おお、気持ちいい。……うおっ」
顔に短パンが飛んできて、室田は短い悲鳴をあげた。
「さっさとこれ、履いて」
「ひどいなあ。お客さんに対して」
「勝手にパンツ一丁になる客なんてうちには来ませんから。本当は女性限定なんだから」
「じゃあ、俺だけ特別?」
「もうひとりいるけど」
「誰?」
「甥っ子のゆきちゃん」
「なんだ、子供か」
「もう子供じゃないよ。21歳。ゴウ君に出会ったときのわたしが19歳のときだから、それより年上だよ」
「19歳なんて、子供だよ」
短パンを履きながら室田は言った。
「その子供に恋したのは、どこの誰よ」
「いいんだよ。俺も26歳で子供だったから」
「26歳で子供?」
「そう。過去の自分は今から見たらみんな子供だ。でも、子供のやることのほうが、大人より正しいこともある」
「理屈こねてないで、さっさと履いて。これも書いて」
「身長、体重、睡眠時間、食事の内容、持病、薬……。なんだ、これ。病院みたいだなあ」
ぶつぶつ言いながら、室田は体調や生活習慣を尋ねるアンケート用紙をせっせと真面目に書きこみはじめた。
年齢の欄に書かれた37という数字を見つめながら、果穂は時の流れを実感していた。19歳のとき、ずいぶん大人に見えた相手は、今思えばたった26歳で、果穂はとっくにその年齢を超えてしまっている。19歳の浪人生と26歳の予備校講師の恋は、当時は真剣そのものだったのに、今思うと何だか可愛らしいおままごとみたいだ。過去の自分はみんな子供という室田の言葉は当たっているのかもしれない。29歳の恋も10年経てば、そんなふうに思えるのだろうか。
「はい、書けた」
差し出された用紙を覗きこんで、果穂は深々とため息をついた。仕事が忙しいのだろう。不健康すぎる。夜ご飯は居酒屋で酒と肉と炭水化物、昼はコンビニ弁当、朝食抜き。野菜もフルーツも食べていない。睡眠時間は極端に短い。報道カメラマンという職業柄、よく歩いているので運動不足ではないことだけが救いだった。
「じゃあ、この上に寝っ転がって。仰向けで」
生活習慣についてアドバイスしたいことは山ほどあったが、事細かに言っても室田は守れないだろう。かつての果穂も同じような生活をしていた。自分を大事にしようという発想がなかったから、誰かから苦言を呈されても改めようとは思わなかっただろう。果穂にできることは、今ここで心を込めてトリートメントをすることだけだ。
足にオイルを伸ばしていく。酷使された足だった。丈夫だけど張り詰めていてぎりぎりのところで保っているような危うさがあった。その足を触っていると、何も話さなくても会わなかった数年間のことが分かる気がした。
「これ、なんだっけ? リフレ……」
「リフレクソロジー」
「いいね。気持ちいい」
静かになった。果穂は室田の顔をそっと盗み見た。目をつむっているが寝てはいない。穏やかな顔だった。
室田はもともと研究者志望だった。大学院での研究のかたわら、予備校にバイトに来ていた彼はどこか浮世離れしたところはあったが、果穂の理解できる普通の人だった。だけど、果穂が大学に合格した直後に、室田は予備校も大学院もやめた。そして報道カメラマンになった。大きな災害やテロや事故があるとどこでもカメラを持って駆けつけ、誰も省みない悲惨な貧困の現場や暴力をとらえては写真におさめていく仕事だった。世界中を飛び回っているせいで数ヶ月に一度しか会えなかったし、なんだか違う世界の人になりすぎて、ついていけなかった。それで、果穂は室田と別れた。
別れてからもメールやハガキの連絡で近況を知らせあってはいたが、再会したのは別れてから10年後、29歳のときだ。果穂が失恋し、自己嫌悪で落ち込んでいたときに、室田の写真展の案内状が送られてきた。さっと見て帰るつもりが、写真に魅入られて動けなくなり、室田に話しかけられて、そのあと飲みに誘われた。
誘いに応じたのは、室田が何のしがらみもない人間だったからだ。職場の上司と不倫して失恋したなんて、友人にも職場の人にも姉にも話せないが、室田なら誰かに漏れる心配もなかった。またすぐにどこかへ行ってしまう渡り鳥のような人間だから何を話しても安心だった。だけど、気がついたら、仕事をやめるか続けるか悩んでいることまで話していた。失恋した相手と職場で顔を合わせるのがつらかった。仕事が急に色褪せてなんのためにやっているのか分からなくなって毎日がつらくむなしかった。
——失恋くらいで仕事辞めたくなるなんて、バカみたいでしょう? 自分でも分かってるんだけどね。
果穂は自嘲して笑った。だが、室田の口からは予想外の言葉が飛び出てきた。
——そんな仕事さっさと辞めちゃえば?
——えっ? 失恋くらいで仕事辞めるなんて、おかしいよ。
辞めたいと思っているのは自分なのに、室田を責めるような口調になってしまう。
——失恋くらいで辞めたくなるような仕事なんて、無理して続ける価値ないよ。俺は失恋しても、カメラを辞めないよ。現に果穂に振られても辞めなかったし。
果穂は驚いて室田を見た。ものすごい競争率の中、勝ち取った就職だった。誰もが辞めるなんてもったいないと言うだろう。室田の意見はあまりにも予想外だった。
突然視界が開けたような気持ちがした。今まで一本の道しかないと思い込んでいたものが、自分で行き先も行き方も選べる広い野原に立っていることに気がついた。
「失恋しても辞めたくならない仕事、見つけたんだね」
気がつくと、室田は目を開けて、果穂の顔を見つめていた。
「まだ分からないよ。これ始めてからは、まだ失恋も恋もしてないから」
「そう? きっと、辞めないよ。そういう顔してる」
室田の、すぐ分かったようなことを言うところが、果穂は苦手だった。でも、なぜか、いつでも室田は、果穂が自分で分かっているよりもずっと深く果穂のことを分かっている。
「……だといいな」
筋肉のついたふくらはぎをマッサージしていく。少しずつほぐれて、暖かな血が通い始める。変化が指先から伝わってくる。体も変わるし、心も変わる。表情も変わる。この仕事を始めてから、胸の中にぽっかりと穴が空いたような狂おしい気持ちになることがなくなった。自分のできることを手で確かめて、一生懸命リフレを行っていくたびに、少しずつ胸の穴が埋まっていった。
「果穂。もう一回付き合おうよ。それで今度は結婚しよう」
天井に向かって室田が言った。
「断る。報道カメラマンなんていつも家にいないし、事件があるたびに身の上の心配をしてなくちゃいけないし」
くくっと室田は笑い出した。
「また振られた。10年前とセリフまで一緒」
予備校の講師としてみんなの前にいるときには見せない、少し皮肉めいたその笑い声が果穂は好きだった。もし彼がカメラマンではなく、大学に残って研究者になる道を選んでいたら今頃この人と結婚していたかもしれないと、果穂は思う。でも、そういう人だったらこんなにも心を惹かれなかったかもしれない。
ジーンズに着替え終わった室田をダイニングテーブルの椅子に座らせると、果穂はハーブティーを用意するためにキッチンに立った。何だか落ち着かなかった。ダイニングテーブルはプライベートな空間だったから、お客さんは通さない。でも室田は客ではなく元恋人だ。友人とは言い難いが、もちろん恋人ではない。嫌いなわけではないし、むしろ一緒にいたら落ち着くが、彼の生き方に深く関わる気はない。何とも中途半端な関係だった。ちょうどよくない相手だ。
そのとき、果穂の携帯にメールが着信した。ちょうどよい相手である幸彦からの着信だった。『ちょっと進路のことで相談したいんだけど、今から行っていい?』と書いてある。
「ああ、気持ちよかった。体が生き返った気がする。頭もすっきりした。今度から日本に帰ってきたら通ってもいい? あ、このあと、暇? よかったら久しぶりに飯でも……」
上機嫌な室田の話を上の空で聞き流しながら、果穂は唐突にこう切り出した。
「今から甥っ子が来るけどいい?」
「え? ここに? ダメって言える立場でもないけど。向こうはいいの?」
「進路について相談したいんだって。サンプルは多いほうがいいでしょう」
不服そうな室田に構わず、果穂は幸彦に『いいよ』と返事を送った。そして、我が甥っ子ながら、なんてちょうどいいんだと感心した。
半時間後、ドアを開けた幸彦は、背の高いたくましい男が果穂と一緒に出てきたのを見て、ぽかんと口を開けた。
「果穂の彼氏?」
「そう」
と、室田が答えた。
「違うよ」
と、果穂が答えた。
「一対一で引き分けだ。真実は闇の中」
室田は勝ち誇ったが、幸彦はため息をついた。
「引き分けじゃないですよ。どっちかが違うって言った時点で、成立してないですから」
「賢いな。そしてクールだな、平成っ子」
室田が大げさに感心して見せた。
「さあ、上がって上がって。話を聞こうじゃないか」
室田はよく通る声で言って、幸彦の背中をどんどん押してダイニングテーブルに連れて行く。さっきまでとはテンションが違う。予備校の講師モードだ。いつも物静かで斜に構えている室田だが、ひとたびスイッチが入れば、人懐っこく話の面白い人気講師になる。それが、自分の内面に人を入りこませないための室田なりのバリアなのだということを果穂は知っていた。
「何がしたいかなんて、何かしてみるまで分からないんだから、何でもやってみればいいんだ」
キッチンで三人分のハーブティーを入れている果穂の耳に、身もふたもない室田のアドバイスが聞こえてきた。なんですかそれ、と、あきれたような幸彦の声が聞こえる。果穂は笑った。
「確かに、一理あるかも」
と言いながら、果穂がハーブティーをテーブルに置いた。
「果穂までそんなこと言うの? 俺、相談する相手、間違えた」
ため息をつく幸彦の横で、室田は上機嫌に笑い続けていた。
(つづく)
表紙イラスト・デザイン:木村友昭
初出:日本リフレクソロジスト認定機構会報誌「Holos」2016年5月号
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