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【小説】月の子屋―第2話

 殺し屋の仕事、一日目。
 彼女は、目覚まし時計の電子音で目を覚ました。時計は、球状の小さな置き時計だった。あらかじめこの仕事の時間に合わせてセットしてあるのだろう。彼女は、電子音を聞いて初めて、ベッドの枕元にそんな時計が備え付けられていることを知った。彼女は、いつまでも必死に鳴り続ける時計を手にとって裏返してみる。スイッチを見つけてベルを止める。
 彼女はベッドから起き上がると、部屋の電気を点けた。朝といってもほとんど夜中に近く、部屋の中は、電気を点けないと物の形が見えないくらいに暗かったからだ。シャワーを浴びて服を身に付けた。マニュアルを眺め、準備を始める。

・服装等は自由です。ただし、月の子を警戒させるような服装は避けてください。

 玄関に設置してある大きな鏡には、薄汚れたワンピース姿の少女が映っていた。服はこれしかない。服装に関しての工夫はあきらめて、マニュアルをカバンに入れる。玄関に投げ出されたスニーカーに足を突っこむ。つぶれて床にへばりついていたスニーカーが何とか足の形に戻る。鏡に向かって微笑んでみる。月の子の前で微笑むための練習だったが、鏡の中の彼女の唇はほんの少し痙攣しただけだった。
 外に出ると、冷たく湿った夜の空気が、彼女の首筋を撫でていった。辺りはとっぷりと暗く、朝が近づいてくる気配も感じられなかった。昨夜、運び屋が告げたとおり、家の前に一台のタクシーが停まっていた。彼女は黙ってタクシーに乗りこんだ。行き先を告げなくても、タクシーは走り始める。もちろん、行き先を尋ねられたところで彼女は知らないのだから答えようがない。
 町には車も人もほとんどない。信号機も眠っている。地下鉄の入口は鉄格子で閉ざされていた。彼女は、流れる景色を見続けていたが、特に何かを注視することはなかった。彼女の目に映る景色は、流れていくという性質を持つだけのもので、彼女にとっては、窓から景色を眺めることは腕時計で時刻を確かめてみることと同じだった。景色に新たな発見をすることもないが、飽きることもない。
 三十分ほど走って、タクシーが止まった。その時初めて、彼女は自分がお金を持っていないことに気がついた。
「あの、お金は」
「お代はいりません。契約していますから」
 と、タクシーの運転手は言った。それから一枚の紙を彼女に手渡した。そこには建物の配置図が書かれており、一箇所に丸がつけてあり、数字が書いてあった。
「ここに行ってください。私は今日はこれで失礼します。帰りは地下鉄で帰ることになっています」
 彼女の背後でドアが音をたてて閉まる。旋回してタクシーは走り去っていった。
 鉄格子も開閉式の扉もない二つの柱が、この敷地の門らしかった。侵入者を防ぐとか車を止めるなどの意志が感じられないそれは、門というよりはむしろ、、ただの目印に思えた。門の横には守衛用に小さな小屋があり、中にいた警備員が、彼女を退屈そうに眺めた。
 気が遠くなりそうなほど、広大な敷地が広がっていた。規則正しく整列した『研究棟』が何棟も、そびえている。まだ夜が明けてないが、外灯が冷たい光を落としているので、建物のシルエットがくっきりと見えた。
 舗装された道が延々と続き、どれも同じ建物に見えた。彼女は、タクシーの運転手からもらった敷地内の見取り図と、目の前の建物の並びを見比べながら、歩いていく。建物に見飽きて、自分がどのくらい歩いてきたのか分からなくなってきた頃に、ようやく、地図上の丸と同じ位置であろう建物にたどり着いた。自動ドアに刻まれた数字も、地図に書かれているのと同じだ。
 壁の横の金属プレートに手のひらをかざすと、ロックが外れ、ドアが開いた。棟は彼女の侵入を歓迎するわけでも拒否するわけでもなく、ただ無気力に受け入れる。乾燥した空気が室内を循環していた。廊下には、人が歩いている気配はなかった。朝が早いからだろうか。それとも、もともとここは人がうろうろしていないものなのかもしれない。エレベーターを発見して、乗りこんだ。点滅する数字を眺める。目的地は最上階だった。
 エレベーターから降りた先には、真っ白な廊下が伸びていた。突き当たりに『処置室』と書かれたドアが一つだけある。彼女は、処置室の横のプレートに手をかざす。ドアが音もなく開いた。
 一歩入ると、部屋の電気が灯った。オフホワイトのライトに照らされたその場所は、処置室と聞いて彼女が想像していたものとは全く異なっていた。床には毛足の長いラグが敷かれ、その上にはソファーとソファーテーブル、アンティーク調のリビングボードが置いてある。ガラス戸と反対側の壁際には扉付きのローボードがあり、ローボードの平らな上面には銀色の古代魚が泳ぐ水槽と、レコードプレーヤーが置いてあった。処置室というよりは、どう見ても洗練された居心地のいいリビングルームにしか見えなかった。
 中に入ると、彼女はまず、カバンを壁にかけ、マニュアルを開いた。月の子を迎える仕度を始める。

・最初に、月の子がリラックスできるように処置室を整えましょう。

(リラックス?)
 彼女はマニュアルを見つめて考えていたが、部屋をぐるりと見回して、巨大なガラス窓に目を留めた。白いブラインドに覆われている。彼女は、窓際に歩いていくと、紐を軽く掴んで一気に引っ張った。するするとブラインドが上がり、透明に輝く硬質なガラス窓が現れた。窓の外には、昇り始めたばかりの朝日が見えていて、オレンジ色の光が窓から差しこんで部屋に降り注いだ。
 それから、彼女はもう一度部屋をぐるりと見回した。部屋の空気は、天井に埋めこまれた空調で調整されているようだった。部屋の隅の壁に、空調の操作盤が設置してあった。壁の計測器で温度と湿度を確認し、マニュアルの参考数値と見比べながら、そのとおりにセットする。
 次に、彼女はローボードの上のレコードプレーヤーを見た。プレーヤーのターンテーブルの上には、レコードが置かれたままだった。彼女は、レコードに針を載せてみる。緩やかなリズムに乗って、甘い歌声が流れ始める。
 これでよし、と彼女はうなずいて、再びマニュアルに目を落とした。

・リビングボードの引出しを開け、マシマロと矢を手元に準備しておいてください。

 引出しを開ける。そこには、薄紙の小袋で個別に包装されたマシマロと、十センチほどの長さの矢が並んだガラスケースがあった。彼女はマシマロの袋をいくつか掴んでジャケットの左のポケットに入れ、矢を一本右のポケットに入れた。

・矢の先は黒薔薇の棘でできています。黒薔薇の棘には毒があります。人間には害がありませんが、取り扱いには十分注意してください。

 ソファーに腰掛けて、マニュアルをもう一度読む。あとは『月の子』の到着を待つだけだった。

・チャイムは月の子の到着を知らせる合図です。

 彼女はマニュアルをソファーのクッションの下に隠した。作業の内容はすでに彼女の頭に入っていた。部屋のドアが開く。荷台に乗って一抱えほどの大きさの金属の箱が中に滑りこんできた。

・金属の箱は防振装置です。装置を解除して中の木箱を取り出してください。

 彼女は、荷台の前にしゃがむと、ボタンを押して装置を解除した。

第3話につづく)


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