【短編】嘔吐

 一、

 その日は、ひどく疲れていた。頭が痛くて、眼球の奥に穴が空いたように目が乾いていた。一晩眠れば戻るというような健康的な疲れじゃない。僕がそのとき抱えていたのは、もうこれ以上何かを体に入れると破裂してしまいそうな暴力的な疲労だった。息を吐くと自分がばらばらになってしまいそうだった。
 誓って言うけど、アルコールなんて一滴も飲んでなかったんだ。
 とにかく家に帰りつかなくてはと、僕はタクシーを探した。道路に出るとヘッドライトが目を突き刺した。赤いテールランプが次々と僕の前を横切っていって、頭が割れそうになった。道路を見ることができなかった。それどころか、その場所に立っているのも嫌になって道路から離れた。
 家に帰るのをあきらめて、とにかく手近なところで泊まってしまおうと思った。路地に入った瞬間、今度は下品なネオンが僕を取り囲み、一斉に飛び掛ってきた。まったくそれは襲われたという表現でしか言いようがないね。まるで追いはぎのようだった。赤や黄色やピンクや青がばらばらに僕にぶつかってきて、僕の体の中に入ろうとした。たまらなくなって、僕はその場に座りこんだ。もう何も見たくなかった。頭を抱えて、目をつむった。
 しばらく、そうやって道にうずくまっていた。体が動かなくて、そうするしかなかった。
 すると、コツンと固い音が地面に響いて、頭の上から、お兄さん、どうしたの? と、苛立っているような女の声がした。僕は最後の気力を振り絞って、彼女に答えなくてはと思った。
 起き上がると、顔を上げて、女を見た。女は、よりによって真っ赤なドレスを着ていた。それがとどめだった。全身の筋肉が緊張して、内臓から何かが駆け上って、僕はえづいた。そして、女のドレスに向かって吐いてしまった。両手で口を押さえたけれど、止まらなかった。指の間からぬるぬるしたものが勢いよく流れ出て、女のドレスに飛び散った。体が痙攣し続けて、僕には制御することができなかった。苦しくて涙が出た。それでも、げえげえと吐き続けた。
 すべて吐き出し終わると、少し体が軽くなった。頭の痛みも治まっていたし、気分もましになっていた。
「すみません。とんでもないことをしてしまった」
 僕は、女に向かって叫んだ。でも、女は平然としていた。女のドレスは相変わらず染みひとつないきれいなままで、吐瀉物が散った気配はまったくなかった。僕は自分の手を見た。手には何も付着していなかった。液体に濡れたあとすらなかった。
 女は僕を迷惑そうに眺めていた。酔っ払いの戯言には慣れているといった風だった。きっと店の前に吐かれてはかなわないと思って、声をかけたのだろう。僕が何も吐かなかったので、とりあえずは安心しているようだった。
 そのとき、僕の目の前で赤いドレスがずるりと垂れ下がり、そのまま地面に落ちてしまった。赤い布が輪になって女のハイヒールの周りを囲んでいる。その赤はじわじわと地面に広がっていき、やがて拡散して消えてしまった。
 一体何が起きたのか分からなかった。足元からゆっくりと視線を上げていく。女は裸ではなかった。ちゃんと服を着ていた。ただし、その服は濃い灰色のドレスだった。次の瞬間、僕をうさんくさそうに眺めている女の口から、血を流すように紅が溶けていき、金色に染めた髪が白くなっていった。
 僕は誰かに助けを求めようとして、辺りを見回した。すると、街にも異変が起きていた。ビルのネオンサインから、ピンクや黄色がどろどろと溶け出して地面に降り注いでいた。看板も店の壁も通り過ぎる車も通行人の服からも、あらゆるものから色が溶け出して地面に落ちて流れていた。
 色たちは混ざり合い、汚物のようなものになって地面を流れていった。それは世にも醜悪な眺めだった。
 僕は、何だかだんだん愉快になってきた。ざまあみろ、と僕は思った。全部流れて滅びてしまえ。そして、ついに僕は笑い出していた。
 どれだけそうやって、笑い続けていただろう。気がつけば、僕はモノクロームの街の中にひとりで立っていた。暗闇の中、光る白いネオンが星の瞬きのように見えた。宇宙の中にいるようだった。
 それは、美しくシンプルな世界だった。静かで、統一されていて、穏やかな世界だった。この世界では、もう誰も僕を下品な黄色で警告することもできないし、欲しくもない商品を赤や青で怒鳴られ売りつけられることもない。
 こんなに気分がよかったのは生まれて初めてだった。
 僕は、道路に出た。道路にはもう車はほとんど走っていなかった。時折、白い光を発しながら闇を通り抜けていく神秘的な生き物を、僕は今までにないくらい優しい気持で眺めた。そして、手を挙げるとその中の一匹をつかまえて乗りこんだ。
 もちろん家に帰ったら、ぐっすりと眠れたよ。こんなに穏やかな眠りについたのは本当に久しぶりだった。

   二、

 男は、そこまで一気に話し終えると、目の前のグラスの中身を飲み干し、カウンターの中の女に向かって笑いかけた。
「僕が何か変わったかって君は尋ねたけれど、確かに僕はその日以来、変わったんだ」
 同じものを、と言われて、女は男のグラスを下げると、ブラッディ・メアリーをもう一度作って出した。男にとって、これも真っ黒の液体にしか見えないのだろう。
 女は、言いにくそうに口を開いた。
「あなた、きっと、お医者さんに行った方がいいわ。目か脳のどちらかが、おかしくなっちゃったんだと思うわ」
 男は笑って、首を振った。
「これは、病気じゃないよ。まったく色が見えなくなったわけじゃないんだ。少し力をこめれば見ることもできる。まぶたがもう一枚できた感じなんだ。そのまぶたを閉じれば色がなくなる。どうしても見なくちゃいけないときは、そっと開けて確認することはできる。まあ、できればしたくないけどね。たとえば、仕事で、書類の赤線を引いた部分を確認してくれなんて無粋なことを言われるときもあるからね。というわけで、僕は困ってないよ。困ってないから医者に行く必要なんて全然ない。もし医者に治してあげようと言われたら、僕はお金積んででも、どうかこのまま治さないでくれと頼むだろうね」
 男はタバコをくわえると、火をつけてから、言った。
「この静かな世界を手に入れて、僕は改めて君の美しさに気づいたよ」
「そう、ありがとう」
 と、女は答えたが、あまり嬉しくはなかった。
 今日は深い藍色のワンピースに小粒のダイヤのネックレスを合わせている。淡いピンクに染めた羽毛でできた上着も、タバコを挟む指の爪に塗られた金色も、彼女が細心の注意を払って選び出した色ばかりだった。
 それから、彼女は、男の格好をしみじみと眺めた。男は、アマガエルのような奇抜な緑色の上着に、オレンジ色のシャツを着て、ピンクのズボンを履いていた。
 ――いったい彼は何を吐いてしまったのだろう?
 女は何かを言おうとしたが、男があまりに幸福そうだったので口をつぐんだ。

〈了〉


※ファイル情報によると2011年6月に書いたらしいです(笑)

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