見出し画像

すごい人になりたいという呪いから解き放たれて名のない人として小さく生きていく

23歳の大学院生のときに初めて接客のバイトをした。それまでは家庭教師や塾講師しかしたことがなかった。イタリアン料理のお店でウェイトレスになった。「いらっしゃいませ」と発話するのも初めてで初日は緊張で倒れそうだった。お客さんはみんな、わたしが大学院生であることなど知らず、いち店員としてわたしに給仕された。1年で店がなくなってしまったけれど、とても楽しかった。

大学院の博士課程を修了して、小説家を本気で目指すだけの日々になり、30歳手前で派遣バイトに登録して、その場限りの仕事をした。それもとても楽しかった。取り換えの効く人材として名のない人間でいることは、ずいぶん気楽なのだと思った。年食って経験値が多いわりに、見た目が若いので、結構いろいろ重宝された、とは思う。

何とか小説家になれて10年経ったけれど、いまだにぱっとしない鳴かず飛ばずの、小説だけでは生活できない状態で、コンプレックスの塊で、人と比べたりレビューを見て落ち込んだり、自分が書く意味はないんじゃないかと考えてしまう悩みは解消されない。

一方で、小説の基本的な書き方を教えたりする人があまりいないので、その点では重宝されている感じはする。人の役に立っている。小説を愚直に書いてきた基礎体力のようなものがあるので、ライターとしてもときどき仕事を依頼をしてもらい、それなりに人の役に立てている感じはする。

ライターの仕事はそもそも名前のない仕事だ。業界内では有名なライターさんもいるけれど、一般の人は誰が書いたのかを気にせずに読む。読みやすくて当たり前なので「この文章うまいなあ」などと感心したりもしない。名のない取り換えの効く仕事。売れない小説家として嫉妬と自己嫌悪にまみれていたわたしは、初めて接客業を経験したときと同じように、気持ちが楽になった。

ライターの仕事を始めたことで人間として正しく地に足をつけられるようになった気がする。希望をかなえられるよう、依頼に対して精一杯とりくんでできた「商品」はクライアントさんが満足してくれればそこで終わり。ベストセラーとか見知らぬ読者とか他の作家さんの売れ行きとか悪意に満ちたレビューを書く人たちとかを考える必要がない。それらは、わたしの生活圏の外の要素で、わたしにはコントロール不能だ。自分にとって実感がある範囲のものごとを考えていくほうが、精神的に健康になれるような気がする。

テレビに出たり、ネットで炎上したりして、見知らぬ人の悪意を引き受けることに、何かメリットがあるんだろうか、と最近ときどき考える。そもそも、有名税というけれど、税金をかけられるほど有名になることにメリットがあるんだろうか。

わたしは、好きなことをして心地よく生きていきたいけれど、「有名になる」ことは、どうも、それを邪魔する気がする。普通に生活できればお金持ちにならなくてもいいし、もしかしたら面白くないと思う相手にまで作品が届かなくてもいいのかもしれない。たくさんの人に読まれれば必ずいろんな意見があって期待外れや合わなかったり面白くなかったりする人も出てくる。

小説家として、街の小さなお店の店主のように暮らしていくことはできないだろうか。隣町にはわたしより優れた小説家がいても、「そんな店知らないけど?」って多くの人に言われても、日本の中には有名なお店はたくさんあっても、近くて居心地がいいから立ち寄るという人が店の経営に困らない程度の数いてくれて、その人たちに恩を返すように、誇りをもって、ずっと書いて暮らしていけるような。

ずっとわたしは「すごい人」になりたかったんだと思う。でもその「すごい」を決めてる人たちのくだらなさを、ここ数カ月で思い知った。でたらめで、気分屋で、人の気持ちなんて考えなくて、信念がなくて、八つ当たりの相手をいつも探していて、思いこみが激しくて、自分の本当の気持ちに向き合ったことのない人たちだと思った。端的に言って、すっかり幻滅した。わたしはどうして、こんな人たちに認めてほしいと思っていたのだろうか。「有名」になってこの人たちに関わることになったら、わたしの幸せは増えるどころか壊れてしまう。

SNSやこのnoteに訪れてくれる人たち、わたしの小説や劇を楽しんでくれた人たち、わたしに仕事を依頼してくれる人たち、友人たち、そんな人たちが楽しんでくれる小さなお店をこれからも続けられるよう、それだけを考えていきたい。「世間」からは代替可能な名のない人でいたい。今はそんな気分。

(photo:よもぎ)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?