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【小説】月の子屋 ―第1話

 拘束着に包まれ、ミノムシのような格好をさせられているにもかかわらず、少女の目にはおびえの色も怒りの熱も宿されていない。あたりを見回すこともなく、まっすぐに医師を見つめている。
 医師は少女をその格好のまま椅子に座らせて、いくつか質問を投げかける。少女の髪はあごのラインで切りそろえられていて、天井からの光を受けて黒く光っている。少女は、質問に短い言葉で的確に答え、ときおり首をふる。そのたびに髪の毛がさらさらと音を立てて彼女のほおをさっとなでる。
 ひととおり診察し終わった医師は、白いひげをなであげて、深いため息をついた。
「その子の拘束を解いてやれ」
 屈強な肉体を誇る男性看護師が、本当にいいのかと問う目で医師を見る。
「しかし、院長。Z三三〇を発症した患者は、拘束を解くと自殺をする危険性があります」
「大丈夫だ。その子は発症していない。紹介してきた医師の誤診だ。もしくは」
 医師は、デスクの上の紹介状を見つめる。一週間前の日付だ。
「Z三三〇と診断されたあとに、治ったかのどちらかだ」
 看護師は不満そうな顔をしたが、指示に従って、拘束着のベルトを外し始めた。わざわざ迎えに行ったのに、納得できないのだろう。拘束を解いたあとも、少女が妙な動きをしないか全身で警戒している。
 少女は、拘束されていたときと何も変わらぬ様子で大人しく椅子に座っている。粗末なワンピースから伸びた細い手足は、彼女がほんの少女だということを示していたが、表情のない整った顔を見ていると、まるで何らかの職業訓練を受けた大人の女のようにも見えた。病ではないと診断されたのだから、安堵するなり、こんな目に合わせられたことに怒りを感じるなり、何らかの反応を見せてもいいはずだった。
「カバンを返して」
 と、少女が言った。看護師は置いてあったカバンを取り上げると、少女ではなく医師に差し出した。
「これをいつも身につけているそうです。なぜか双眼鏡が入っています」
 古びた革のポーチは、看護師が持つと財布のように小さく見えた。
「返してやれ」
 看護師の手からカバンを受け取ると、少女は、嬉しそうな様子を見せるわけでもなく、無言のまま、首から斜めにカバンをかけた。
 医師はもう一度、紹介状に目を落とした。紹介者の医師は、あまり聞いたことがないような小さな町の医者だが、研究雑誌で目にしたことがある名だった。診察の様子も詳細に記されている。現実と妄想の区別がつかなくなるほどの恐怖感情。激しい自殺願望。生命に支障をきたすほどの過敏な知覚反応。おびえた目で体を震わせて、話しかけると暴れだす。まさにZ三三〇の典型的な症状だ。だが、今、目の前にいる少女とは別人のことを書いているようだった。
「まさか、間違えて別の子を連れてきたというわけじゃないだろうな」
 冗談めかして医師は言ったが、看護師はにこりともせずに、
「それはありません」
 と、断言した。
「彼女のいた児童施設の複数のスタッフから、彼女の行動の詳細を確認しています。私の目から見ても、彼女は典型的なZ三三〇に間違いないと判断できました。それなのに、今は、まるで」
「別人のよう、か」
 医師は看護師の言葉の続きを引き取った。
「そうですね」
 と、看護師は答えて口を結んだ。
「さてと、この子をどうするかな」
 医師は立ち上がると、患者に向けて背を向けて伸びをした。
「元のところに帰ってもらうしかないか。Z三三〇を発症しているのなら、ここにいつまでもいてくれてよかったんだがな」
 窓の外は曇り空が広がっていて暗かった。黒いガラスに少女が映っている。医師の言葉に動揺する様子もない。施設から出たくて、演技をしたというわけでもなさそうだ。そもそも、施設の人間と町医者と、そして今ここにいるZシリーズのベテラン看護師である男の目を騙してここまで来るなんて、よほどの演技力と知識がないと不可能だろう。
 考えられる可能性は、看護師が迎えに行って、ここに連れてくるまでの間に治ったということだが、今までにZ三三〇が自然に完治した例は聞いたことがなかった。
 この病院では、Z三三〇の治療と研究を行っている。Z三三〇を発症した患者は、本人や保護者の希望でこの施設に集められ、無料で治療する代わりに、研究に協力することになる。患者を実験動物扱いしていると非難もあるが、ここに入院すれば、ベッドに縛り付けるか動きを抑制する薬剤漬けにしないと生命を維持できなかった患者が、刺激のない個室でひとりで暮らせるくらいまでは回復することができるのだから、悪い話ではない。
 研究費は、篤志家の寄付によって賄われている。Z三三〇の発症因子を遺伝子に持つ金持ちたちだ。ここの研究が発展することが彼らの保険なのだ。
「元の施設に戻すのは、難しいかもしれません。施設長たちも厄介払いができたとあからさまに喜んでいましたから」
 沈痛な面持ちで、看護師が言った。自分の判断に責任を感じているのだろう。だが、彼のせいではない。医師はしばらく考えをめぐらせてから、少女に向き直った。
「君はここに入院することはできない。元の場所に帰ってもらう。もしくは、それが嫌なら、ここに残って働くという選択肢もある」
 看護師は驚いて医師を見た。が、すぐに医師の考えを理解した。もし、この少女がZ三三〇を発症して治った初めてのケースだとしたら、そこから何か治療法のヒントが見つかるかもしれない。近くに置いておいて、経過を観察しようというのだろう。
「残って働く」
 と、少女は言った。医師は孫娘に接するように笑顔を作って、もう一度椅子に座った。
「よし。じゃあ、君は何ができる?」
 少女はしばらく考えたあとに、
「心が見える」
 と、答えた。
「それはすごいな。うちで働くのにぴったりだ。どんなふうに見えるんだ?」
「胸の中に住む、ふわふわした生き物の姿が見える。主に鳥の姿をしている」
「ほう。では、あいつの心はどんな姿をしている?」
 医師は看護師を顎で指した。少女にじっと見つめられて、看護師は落ち着かなくなり、意味もなく襟を直した。
「賢い目を持った首の短い灰色の鳥。ぐるぐると歩き回って落ち着きがない」
 医師は愉快そうに笑って、
「じゃあ、私はどうだ?」
 と、続けた。
「分からない」
 と、少女は答えた。
「あなたはわたしに心を見せていないから」
 医師はにやりと笑って、なるほど、とつぶやいた。
「じゃあ、君の心は? 自分の心も見えるのか?」
 少女は目を閉じて、それから口だけを開いた。
「わたしの胸の中には心がいない。暗い闇が広がっているだけ」
 再び見開かれた目には、その闇が映されているかのようだった。医師はもう笑っていなかった。
「君にぴったりの仕事がある。報酬もたっぷりはずむし、住む家も用意する」
 デスクの上の電話に手を伸ばし、受話器を耳に当てる。
「運び屋をここに呼んでくれ」
 受話器を置くと、医師はふたたび少女に向き直った。
「これからここに運び屋が来る。仕事内容の詳しい説明は運び屋がしてくれる」
 看護師が何かを言いたそうに医師を見た。その視線を跳ね飛ばすように、医師は立ち上がる。
「これがマニュアルだ。運び屋が来るまで眺めているといい」
 医師はそう言い残して診察室を出て行った。看護師が後に続く。一人取り残された少女は、手渡された資料に目を落とした。そこには、月の子屋マニュアル(殺し屋)と、書いてあった。

月の子屋マニュアル
 
はじめに
 
月の子は美しい心を持つ生物です。
月の子の心の結晶は、難病コードZ三三〇の唯一の治療薬です。
わたしたち月の子屋の仕事は、オーダーに合わせて月の子の心の結晶を病院に配給することです。月の子屋には四種類の業種があります。
 
・育て屋……美しい心の月の子を育てる。
・殺し屋……月の子を殺す。
・取り出し屋……月の子の死体から心を結晶化して取り出す。
・運び屋……月の子を取り扱う各業種の人間たちを管理し、病院からのオーダーに合わせて月の子を流通させる。

 少女がそこまで読んだとき、廊下から奇妙な音が聞こえてきた。金属のふれあう音。重い足音。まるでロボットが近づいてくるみたいだ、と彼女が思ったとき、ドアが開いた。現れたのは体型が分からないくらいに丸く膨らんだ、鈍い鉛色の全身スーツを着た人物だった。それがロボットではなく人間だということが分かったのは、見かけによらずなめらかな動きで部屋に入り、ドアを閉めたからだ。
「連絡を受けて迎えに来た」
 と、「運び屋」は言った。
 固い帽子を頭から被り、顔は黒いプラスチックのカバーで覆われていて様子が見えない。声は、金属質な耳障りな音をたてている。顔を覆うカバーに付属した音声マイクを通して出ているようだった。
 少女は運び屋の胸をじっと見つめてみたが何も見えなかった。奇妙なスーツが邪魔しているせいだろうか。
「気にしないで。これはただの制服だから、運び屋のね」
 育て屋、運び屋、取り出し屋、と少女はつぶやいて、自分を指差した。
「君は、殺し屋」
 と、運び屋が言った。
「それ、もう読んだ?」
 少女は開いたままのマニュアルに目を落として、首を振った。
「じゃあ、マニュアルはあとにして、見学に行こう。実際に病棟を見た方が話が早いだろう。特に君のように心が見えるのならね」
 運び屋の後に続いて診察室を出る。
 白い廊下を歩いていくと、円形の広場が現れた。吹き抜けの高い天井の下に、合皮張りの青いシートがずらりと並んで、人間が背を丸めて座っている。化粧石の柱にはめこまれたプレートには、総合待合室と書かれていた。
「ここで待っていて」
 運び屋は、一人で去っていった。
 彼女は、シートの一つに腰を降ろした。シートの両端には、それぞれ老婆と太った男が座っていたが、老婆は少女の格好を見ると顔をしかめ、ハンドバッグを腹に抱えて背を向けた。待合室のシートは何列にも連なり、うつむき気味の人間たちをずらりと乗せていた。広く果てのない暗い海を漂流しているかのようだった。少女は天井を見上げていた。はるか頭上、曇り空が分厚いガラス越しに歪んでいた。
 目を戻すと、受付の案内嬢に話をしている運び屋が見えた。案内嬢が電話をかけはじめる。運び屋は、受付から少し離れて壁にもたれていた。鉛色のスーツはここでもやはり異様だったが、通り過ぎる患者や、白や水色の制服を着たスタッフたちは、誰も運び屋の姿に注目していないようだった。
 しばらくして、奥の廊下から、一人のナースがせわしない足取りで現れて運び屋のもとへやってきた。運び屋が手で合図を送ってきたので、少女はシートから立ち上がり、彼のもとへ歩いていく。座っていたシートは遠ざかり、深い海の底へ沈んでいく。
「Z病棟担当のナースです」
 それだけ言うと、ナースは彼女に背を向けて歩き始めた。その後ろを運び屋の鉛色のスーツが、独特の足音をたてながら追いかけていく。
 狭く長い廊下を抜け、別の建物に入ると、病棟の雰囲気が一変した。エレベーターを中心に円状の廊下があり、その外周に病室が並んでいる。病室とエレベーターの間の狭い廊下を、数人のナースたちが忙しそうに立ち働いていた。荒々しい声が飛び交っている。憤慨しているかのようにどこかで電話やブザーが鳴り、ガラガラとワゴンを押していく音があちこちで鳴り響いていた。その中をパジャマ姿の患者が数人、邪魔にならないよう身を縮め、壁に寄り添って列を作っていた。公衆電話の順番待ちをしているようだった。
「こちらです」
 いつのまにかナースは、エレベーターに乗りこんでいて、ドアが閉まらないようにボタンを押しながら彼女たちを待っていた。エレベーターに乗りこむ。運び屋が乗りこむと、スーツがかさばるせいか窮屈に感じられた。エレベーターは下降し続け、地下十階で停止した。
 エレベーターから降りた彼女は、ぐるりとあたりを見回して、この階がさっき見た階とどこか違うことに気がついた。さっきまでは、患者の名前を示すプレートと部屋番号が張られたドアが、病室をきっちりと閉ざしていた。だが、ここは病室の中が、まる見えだった。ドアが透明樹脂でできている。
 病室にはベッドと壁に埋め込まれたテレビジョンが一台、そして患者が一人。一つの部屋にはその三つが展示のセットのように配置され、青白い蛍光灯で照らされていた。
「ここは、月の子を使って治療をする患者たちの病室だ」
 と、運び屋が言った。
「Z三三〇の発症の原因は今のところ分かっていません。遺伝性の要因が関与していることは確かですが、それだけでは発症しません。何らかのリスクファクターが遺伝要因に重なった場合に、数パーセントの確率で発症します」
 ナースが唐突に説明を始めた。
「この病気は、心にまだ抵抗力のない子供や、心が弱っている大人で発症し、まれに重症化します。患者は日光を嫌がります。ゆえに、彼らの病棟は地下に作られています。この病気にかかった患者は、自らを傷つけ、やがては自分で自分を殺します。ここでは、自殺防止のために一人一人を隔離し、二十四時間体制で監視しています。テレビはコードレスのものを、ベッドのシーツは人間の力では破れない特殊な繊維を用いています。病室の壁もベッドのパイプも弾力がある素材でできています」
 少女はカバンから双眼鏡を取り出して目に当てた。双眼鏡の先には、一人の少年がベッドに座っている病室があった。緩慢な動きでスプーンを使って食事をしているようだった。
「何が見える?」
 と、運び屋が尋ねた。
「胸に、緑色の何かがいる。ずるずると体を引きずりながら蠢いている」
「院長から聞いた話では、鳥の姿に見えるということだったが」
 少女は運び屋の質問に答えずに、しゃべり続ける。
「固い緑色の鱗に覆われている。トカゲみたい。だけど、でも、くちばしを持っている」
 少女は双眼鏡のダイヤルを回して倍率を拡大すると、続けた。
「お腹や尾に、羽毛が残っている。でも、自分のくちばしで自分の皮膚をつついて、残っている羽毛を引きちぎっている。緑色のものは鱗じゃない。羽毛が抜け落ちたあとの皮膚が緑色にただれ、鱗状になってる。くちばしは乾いた血で褐色に染まり、抜けた羽根がたくさん貼りついている。それから」
 突然視界が真っ暗になって、少女は双眼鏡から目を離した。運び屋のグローブがレンズを押さえていた。
「十分だ」
 運び屋の横でナースが青ざめた顔をしていた。眉をひそめ、少女を気味悪そうに眺めている。
「心が病んだ患者たちは、常に命の危機に晒されている」
 黙ってしまったナースの代わりに、運び屋が説明を続けた。
「今のところ、月の子の心の結晶から作られた薬が、この病の唯一の治療方法だ。全快というわけにはいかないが、中には症状が緩和して退院できる患者もいる。月の子屋は、彼らを救うためにはなくてはならない仕事なんだ」
「心なんて、無ければ楽なのに」
 と、ふたたび双眼鏡を目にあてて少女は言った。運び屋は黙って少女の横顔を見つめる。
 病室の奥のドアが開いて、点滴の袋を提げた器具を持って一人のナースが入ってきた。点滴の中にはゼリー状の金色の液体がゆらゆらと揺れている。
「あれが、月の子の心?」
「そう。正確には月の子の心を結晶化させたものから作られた薬だ」
 運び屋が彼女の質問に答えた。
 患者の腕に点滴の針が刺されるのを少女は、じっと見つめた。患者の胸の中では顔が半分緑色の鱗で覆われた大型の鳥が首を振りながらせわしない様子でうろうろと歩き回っていた。ふと、その心が歩みを止めた。首を持ち上げて天を仰ぐ。そのとき、患者の胸の中一面に、金色の雨が降り始めた。病んだ心は、目をつむって羽根を開き、その雨に打たれている。
「育て屋が育て、殺し屋が殺し、取り出し屋が取り出し、運び屋が運んだ月の子の心」
「そう。理解が早いな。ほかに何か聞いておきたいことは?」
 と、運び屋が言った。
「月の子はどんな生き物なの?」
 と、少女は尋ねた。いくらマニュアルをめくってもその説明はどこにも書いていなかった。
「マニュアルに書いてあるとおりだ。『美しい心を持つ生物』だ」
 答えになっていない。少女が黙っていると、運び屋は言葉を続けた。
「実を言うと僕は知らない。どんな生き物なのか、見たことはないんだ。僕は運び屋だからね」
 いったいどういうことだろう、と少女はますます分からなくなる。運び屋は月の子を運ぶ役割ではなかったのだろうか。
「君は殺し屋だから、仕事を始めればすぐにでも月の子に会うことができるよ」
 ほかに質問は、と運び屋は尋ね、少女が首を振るとナースに見学の礼を言い、エレベーターに向かって歩き始めた。
 ならんで病院を出る。来るときは拘束されストレッチャーに乗せられてやってきた少女は、帰りは徒歩で出ていくことになった。外はすでに日が沈み、暗くなっていた。
 
 
 視界が悪そうな覆いをつけたまま、運び屋は器用に車を走らせていく。不格好な運び屋のスーツは、手も鉛色のグローブに覆われているが、まだしも人間らしい形をしていた。手作業に支障がないように配慮されているのだろう。
「部屋は家具付きだ。今日からすぐに住める」
 少女が黙っていると、
「何でこんなに待遇がいいのか不思議に思ってるんだろう?」
 と、運び屋が言葉を重ねた。
「人材不足なんだ、特に殺し屋はね。みんなすぐに辞めてしまう」
「難しいから?」
 いや、と即座に否定した運び屋は、しばらく口をつぐんだのち、
「少なくとも心が見える君には、難しい仕事ではない」
 少女は助手席の窓の外を見た。無数の建物が放つ光が、黒々とした闇に冷たく光る星のように一面に広がっていた。月の子の『美しい心』とはこんな感じなのだろうか、と彼女は考える。光が尾を引きながら彼女の乗った車の後を追いかけていく。
 車は、小さな一軒家の前で停止した。二人は車の外に出た。
「仕事は明日からだ、いいね。朝四時に家の前にタクシーが迎えに来る。他の乗り物はまだ動いていないから、そのタクシーで仕事場まで来てもらう。仕事は昼には終わる。帰りは地下鉄で帰ってもらう。仕事のやり方も、仕事場からの帰り方も渡した資料に書いてある。何か質問は?」
 運び屋は慣れた様子で、簡潔に説明した。少女は玄関口のライトに透かしながら、資料をめくって眺めていたが、
「あ、そうだ忘れてた」
 運び屋が車から一枚の金属プレートを取り出した。登録に必要なんだ、と言って、少女の右の手首を取って、手のひらをプレートに押しつける。
「これでその家は君のものだし、仕事場にも自由に行き来することができる」
 運び屋は、真っ白な磁気カードのようなものを少女に手渡した。
「給料は日払いだ。このカードでどこの銀行からでも引き出せるし、買い物もできる。明日仕事が終わったあとに必要なものをこれで買うように」
 少女は、カードをカバンにしまう。
「じゃあ、明日」
 運び屋が車に乗りこんで去っていったのを見送ってから、少女は、ドアの横の金属プレートに手をかざしてみた。カチャリと音をたてて鍵が開く。中に入り、電気を点けてみる。小綺麗に整えられた清潔な部屋。ソファーもテレビもカウンターキッチンもあった。だが、少女は、それらに目もくれず、まっすぐにベッドルームに向かう。彼女には、ベッドがあれば充分だった。部屋の入口にあったスイッチを見つけて照明を点ける。ベッドに座りこんで、資料を広げて読み始める。

(月の子は美しい心を持つ生物です)

 説明書きの文句を頭の中で繰り返しながら、服を脱ぎ、下着だけになってベッドに潜りこむ。手を伸ばして、目についた壁のスイッチを押してみた。天井のファンが回転を始め、鈍い振動音とともに生暖かい風が流れ始める。彼女はそのスイッチをオフにすると、もう一つ隣のスイッチを押す。部屋の照明が消えた。ベッドの中で目を閉じたが、まだ寝るわけではない。彼女は、寝る前に自分の胸の中をのぞきこみ、あることをするのが日課だった。
 彼女の胸の中。冷たく沈黙した薄闇が広がり、音も匂いも光もない世界。もちろん、そこには、他の人が胸の中に持っているような温かな羽毛の生物は居ない。
 彼女は目を凝らし、薄闇を見渡しながら歩いていく。彼女の探しているのは、育ちそこなった心の死体だ。彼女は闇の底に、硬直して冷たくなった体を見つけると、両手で拾い上げて、胸の隅に運んでいく。羽毛が生えていない裸の体、もちろん目は開いていない。
 この心がいつ生まれていつ死んだのかすら、彼女には分からない。彼女に分かるのは、自分の知らない間に、ときどき心は生まれているらしいということと、冷たく光のないこの場所では、たとえ心が生まれても育つことなく死んでしまうということだけだった。彼女は胸の隅に穴を掘って、育ちそこなった心の死体をそっと埋める。それから、彼女は空白を胸に抱いて眠りに落ちる。暗闇の中、心の居ない彼女は夢を見ることもない。

第2話へつづく)


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