第10話 愛人と冬の海|2016年1月
イラスト:木村友昭
飲み会の予定が入っていて本当によかった、と幸彦は思った。おかげで、延々と続く彼女の泣き言から逃げられたからだ。最近は顔を合わせると、ちょっとしたことで口論になり、最終的にはなじられる。会った瞬間から、幸彦のやることなすこと何もかもが気に入らないという気配を漂わせている。じゃあ会わなきゃいいようなものだけど、会わないと言うと、またなじられる。
女の子は分からない。
幸彦は彼女を取り残して出てきた罪悪感と、しばらくは向き合わなくて済む安堵感で、大きなため息をついた。
『二十分くらい遅れる。先に始めといて』
電車を降りて佐々木にメールを出す。地上に上がると、幸彦は会場になっているお店に向かって走り始めた。
今日は予備校時代の仲間との忘年会だ。一年に一回、会うか会わないかという人間も多いけれど、そのくらいの距離感が今の幸彦にはちょうどよかった。お互いの心を探り合って想いをぶつける濃密なやりとりじゃなく、数人でわいわい中身のない話をして、みんなで何となくその場を共有するだけの気楽な場……
「あれ、二人だけ?」
と、会場に着いた幸彦は、佐々木と甲本さんを見て言った。二人が来るのは知っていたが、二人しか来ないなんて聞いていない。
「インフルエンザ流行ってるみたい」
と、甲本さんが言った。
「まあ座れよ」
と、佐々木が言った。
二人の前には空のジョッキグラスがいくつかと、半分減ったビールがそれぞれ一つずつ置いてあった。
「この三人で集まるの、ひさしぶりだな」
と、佐々木が言った。
「ある意味、事故みたいなものだけどね」
と、甲本さんが言った。
気まずい、と思いながら幸彦はメニューに目を落とした。三人だけで集まるのは、佐々木が言う通り、もうずいぶん久しぶりのことだった。甲本さんと佐々木が付き合っていた時期は自分がお邪魔虫みたいで遠慮していたし、別れてからは何となくふたりに気を使って一緒に集まることはなかった。
だけど、何度も乾杯しているうちに、気まずさは嘘のように消えてなくなった。甲本さんもにこにこしている。佐々木も普段通りだ。予備校時代に戻ったかのようだ。心の底から楽しかった。相手の顔色をうかがいながらデートに誘いだしたり、気を使ってメールをしたり、突然泣かれたりすることもない。どんなことを言っても、いちいち裏の意味を勘ぐられたりもせず、適当に跳ね返される。ちょうどよい距離感だ。
しかし、トイレから戻ってきた佐々木が突然、
「俺、世界一周の旅に出る」
と、言いだして空気が一変した。数分前にトイレに行って、扉に『大型船で世界一周』というポスターが貼ってあったのを見ていた幸彦は苦笑いした。
「大学はどうするんだよ?」
「休学する。というか、もうやめようかなと考えてるんだ。俺、もう二十七歳だし」
「へ?」
奇妙な声をあげたのは幸彦だけだった。甲本さんは知っているようだった。
「幸彦には言ってなかったっけ。俺、一度看護師として働いてて、サラリーマンしたくなって大学に入りなおしたんだ」
「じゃあ、なおさら、なんでやめるんだ?」
「なんかよく分からなくなっちゃったんだよな。結局、サラリーマンになっても同じことの繰り返しなんじゃないかと思ってさ」
「たぶんそうだよ。サラリーマンになっても、その世界一周旅行に行って帰ってきても、同じことの繰り返しだよ」
甲本さんが言った。突き放すような言い方だった。
「なんだよ、急に」
「自分が変わらないと、環境変えても結局同じってこと。わたし、悟ったんだ」
「男をころころ変えたおかげでか?」
「そうだよ」
逃げたい……と幸彦は目を泳がせた。こういう濃密な会話は、ふたりきりのときにやってもらえないだろうか。
「うまくいかないのは、環境も悪いかもしれないけど、悪いからってそこから逃げたら、自分が成長しないから、どんどん悪くなるの」
甲本さんは普段はあまり喋る方では無いけれど、ときどき青少年の主張みたいにとうとうと語り始めることがある。今はアルコールのせいで、さらに勢いを増しているようだ。
「ぐるぐる同じところを回ってるみたいだけど、同じところどころか落ちてるの。螺旋階段を転げ落ちてるの。現実に立ち向かわないと、気が付いたらどん底だよ」
ここまで言われたらいくらお調子者の佐々木でもさすがに激高するだろうと、幸彦は恐る恐る佐々木を見た。が、佐々木はしょんぼりとうなだれていた。
「ははは。甲本さん言い過ぎ」
慣れないフォローをしてみる。
「だって、このままじゃ駄目だって分かってるのに。ああ、自分に腹が立つの」
「何それ? 自分の話?」
佐々木が復活した。
「そうよ」
「じゃあなんで、俺が怒られてるみたいな空気なんだ?」
「ただの八つ当たり」
きっぱりと言われて、佐々木は黙り込んだ。
「……でもまあ、結局、今の環境でやれるだけがんばるってことだよな。俺も最近彼女と毎日ケンカばかりしてて何で一緒にいるのか分からなくなってたけど、今の甲本さんの話を聞いて、もう少しがんばって続けてみようと思ったよ」
場を取りなすつもりで言ったのに、ふたりが同時に顔を上げて真顔で幸彦を見た。
「それは別れた方がいいと思うけど」
「さっさと別れたら?」
幸彦は言葉を失って二人を見た。あまりにも確信に満ちた口調だったので、理由を聞きそびれた。
年末年始は彼女が実家に帰ったので、幸彦は特に予定もなく家でごろごろしていたら、果穂が家に来て、一緒におせちを食べて、なんだかよく分からないうちに連れ出されて、ドライブをするはめになった。こんなこと、前にもあったなと思いながら、幸彦は車の中から外を見た。雪がちらほらと待っていた。
「彼女とうまくいってないの? お姉ちゃんが心配してたよ」
果穂の『お姉ちゃん』は幸彦の母親のことだ。
「なんで母さんがそんなこと……」
「電話、筒抜けなんだって。毎晩、延々とやってるんでしょう? なんか、愛人がなかなか別れてくれなくてもめてるみたいなやり取りって言ってた」
「ひどい……」
幸彦はつぶやいたが、それはなかなか的を射た表現だった。生まれて初めて彼女ができた息子がくたびれた中年妻帯男のような電話をしていたら、母の心中は複雑だろう。
「ひどいよね。愛人に失礼。愛人が全員もめるわけじゃないのに」
そこかよ、と幸彦は心の中で突っ込んだ。
「で、果穂のその件は、もういいの?」
「よくなくても仕方ないから、もういいよ」
よくないのか……と思いながら、幸彦は果穂のきれいな横顔を見つめた。未だ独り身の果穂は幸彦の母から幸彦以上に心配されている。
「あれはゆきちゃんが受験生のときだったから、丸二年か」
「三年」
浪人時代をカウントし忘れている。
「三年かあ。あっという間だなあ」
しみじみと果穂が言った。
幸彦にとっても三年はあっという間だった。あっという間だけどそれなりにいろいろあって、三年前よりも成長して大人の気持ちが分かるようになってきた気がする。自分が大人になってみたら、大人というものは昔思っていたよりもずっとずっと子供なのだということが分かってきた。大人だってうろうろするし、間違うし、途方に暮れたり、傷ついたり傷つけられたりするのだ。
ふと気が付くと、道路を走っている車が少なくなっていた。そういえば、行き先を聞いていなかった、と幸彦はようやく思い当たった。
「どこ行くの?」
「海」
「なんで、こんな真冬に」
幸彦は驚いて非難めいた声をあげたが、この叔母には抗議したところで無駄だということは分かっていた。
「去年も行ったから」
「誰と?」
「ゆきちゃんじゃない方の結季ちゃんと」
「甲本さんのこと? なんで?」
車が大きくカーブして、きらきらと輝く水平線が見えてきた。去年の果穂はどんな思いで甲本さんと海を眺めたのだろうか。そして、今年はまた少し違う心で見るのだろうか。そんなことを思いながら、幸彦は海のまぶしさに目を細めた。
(つづく)
初出:日本リフレクソロジスト認定機構会報誌「Holos」2016年1月号
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?