第26話 弁当二人分と山登り|2021年5月
あの、と室田剛は意を決して発声した。
「箸、二本つけてもらえますか?」
「えっ?」
若い女性の店員が、驚いたように剛を見た。そのまま、意味がわからないというように唖然としている。
「いや、弁当ふたつ買ったんだから……」
我ながらけちくさいことを言っている自覚はあった。家で食べるのだから、箸なんてもらわなくても何の問題もない。だが、剛はどうしても箸を二人分ゲットしたかった。店員は黙って、箸をもうひとつ袋に入れた。それから何事もなかったかのように微笑んで、またお越しくださいと言った。
弁当屋を出た剛は、ふてくされた顔で帰路についた。晩飯にひとりで弁当をふたつ食べる独身男だと思われたことが不満だった。知らない人間に果穂と息子の存在を否定されたような気がして、腹が立つというよりさみしかった。なぜ、自分は既婚者に見えないのだろうと考えた。
家のドアを開けると、大音量の息子の泣き声が出迎えた。驚いて、今まで考えていたことが吹き飛んでしまった。「ただいま」と声だけかけて、お弁当をダイニングテーブルに置き、手をハンドソープでしっかり洗ってうがいする。それから、服を部屋着に着替える。もどかしいが、外からウイルスを持ちこまないための儀式だ。
寝室には、一歳になったばかりの繋(つなぐ)を抱えた果穂がいた。敷きっぱなしの布団の上に座って、茫然としている。腕の中の繋は大音量で泣いている。剛の顔を見た果穂がぽろぽろと大粒の涙を流して泣き始めたので、剛は慌てた。繋と果穂とどちらをあやせばいいのかわからなくて戸惑っていると、「こっち」と果穂が繋を差し出した。
繋を抱っこして歩き回る。足元で果穂が突っ伏してわんわん泣いている。母子の大合唱だ。まずは繋が落ち着かないと話もできないので、あやすことに集中する。リズミカルに揺らしていると安心したのか、寝息を立て始めた。なかなかの手腕だと自画自賛する。そっと布団に置いて、次は果穂だ、と思ったら、果穂の方も泣き止んでいた。
「産後うつとかじゃないからね。繋のせいでもないからね」
そう言って、剛を見る果穂の目からまたじわっと涙があふれてきた。
「先生が……亡くなったって。亡くなったの、もっと前なんだけど、知らなくて、今日知って。ひさしぶりに会ったのに。また会いに行こうって思ってたのに……」
しゃくりあげながら、とぎれとぎれに話す。剛はそばに座って、果穂を後ろから抱きかかえた。先生というのは果穂がリフレクソロジーを習った人のことだとわかった。ちょうど一年前、久しぶりに連絡を取って会いにいっていたのを覚えている。帰ってきたときの果穂のすっきりとした優しい表情になっていた。それを見ただけで、先生が素敵な人なのだとわかった。そんな人が亡くなって、剛も悲しかった。でも、今、腕の中でむせながら泣いている果穂のような激しい感情は湧かなかった。直接の知り合いじゃないからではない。これまでたくさんの死に出会ってきて、人はいつか死んでしまうというあきらめが剛の中に居座っているからだ。
果穂はまだ、あきらめていないのだろう。どうしてこんなことになってしまったのかわからなくて、ぶつける場所のない怒りに震えて、悔しくて泣いている。剛も初めて「死」に出会ったときは同じように泣いた。小学生のとき、仲の良かった友達が事故で死んでしまった。あのとき剛は、今の果穂のように母親にすがって泣きじゃくった。
繋をあやすのと同じように、果穂を軽くぽんぽんと叩いて撫でる。
「繋の匂いがする」
剛の腕に顔をうずめた果穂が言った。さっきまで同じ腕で繋をあやしていたのだから当然だ。剛は何も言わなかった。果穂が泣き疲れて寝息をたてるまで、背中を撫で続けた。
五月の連休を前にして、幸彦は有休をとった。連休を延長させて長期バカンスを取るためではない。連休には予定はないが、恋人である甲本結季に、どうせ遊ぶなら人の少ない日に遊ぼうと誘われたからである。ちなみに結季は、無職を満喫中だ。
結季が選んだデートは、山登りだった。最近はまっているらしい。世の中は感染症の流行でマスクをしないと街を歩けないが、穴場の山なら人がいないからマスクなしで堂々と歩けると、結季は電話の向こうで嬉々として語った。穴場の山。山にそんなものがあるなんて、幸彦は知らなかった。穴なのか山なのか、ややこしい。
「子どもの頃、家族でよく山登りした」
結季が言った。
「だから好きなんだ」
幸彦は息切れしながら応えた。日頃、営業で歩いているけれど、足を上げて登るという行為はほとんどしていない。すぐにばててしまう。本当は会話をするのがつらい。だけど、平気な顔をして登り続ける結季を見ると、黙って登ろうなんて、情けなくて言い出せない。
「子ども頃は好きじゃなかった。しんどいし、何のために登っているのかわからなかったし、せっかく頂上にたどりついても何もないし。食べるものを持って登るんだったら、下で食べたほうが早いし荷物も軽いのに」
その気持ち、よくわかると思いながら幸彦は心の中だけでうなずいた。「子どもの頃は」ということは、今の結季は違うのだ。
「でも、今はわかったの?山登りの楽しさ」
「うん」
「どういうとこ?」
幸彦はすかさず聞いた。今すぐ知りたい。それなのに、返ってきた答えは「教えない」だった。
「自分で見つけた方が、好きになるから。好きなものが多いほど、人生、生きやすいし」
結季は幸彦に背を向けてどんどん登っていく。幸彦は結季ともっと話したかった。重い体に鞭打って、がんばって歩調を合わせて隣に並ぶ。
「会社に行くの、別に、嫌じゃなかった。つらいことも特になかった。でも、気がついたら、自分が何を好きなのかわからなくなってた。好きなものが人生からどんどん消えていって、自分のことも好きじゃなくなってた。だから、辞めたのかな」
横顔を見せて結季はしゃべり続けた。まぶしそうに顔をしかめて、こめかみから汗が流れて、決して楽しそうな表情ではないのに、美しかった。その顔を見ているうちに「いいな」という言葉が幸彦の口からこぼれでた。
「俺はずっと同じところにいる気がする。周りはどんどん変わり続けているのに、何も変わらない」
「逆、逆!」
結季が笑った。
「変わり続けているから同じところにいられるんだよ。川の流れに逆らってとどまり続けるメダカみたいに。どんどん変わっていく周りに合わせて、自分を変え続けられるから、同じところにいられるんだよ。わたしは、幸くんのそんなとこ、いいなって思うよ」
幸彦の足が止まった。ほめられて嬉しいけれど、素直に喜べない、何だか変な感じだった。背中を見せて先を歩いていた結季が振り返った。
「別れよっか、わたしたち」
逆光で顔が見えない。結季は笑っているのだろうか。悲しんでいるのだろうか。怒っているのだろうか。幸彦は動揺を抑えて、ゆっくりと息を吐いた。これは応用問題だ。変わらないためには変わり続けなくてはいけない。
「結季は別れたいの?」
尋ね返すと、結季が今度は動揺した。
「えっ?」
今までの幸彦なら、そんな質問はしない。こんなことを言いだすなんて、結季は別れたいのだと勝手に納得して、こんなとりえのない自分だから仕方がないと心を閉じて、相手の気持ちを尊重するという言い訳の元に、自分で自分の人生を選び取る責任を放棄していただろう。
「俺は別れたくないから、もうちょっと付き合ってよ」
「もうちょっとって、どのくらい?」
「とりあえず、山頂で一緒にお弁当を食べる」
「いいよ。もうすぐそこが山頂だから」
そう言われて、幸彦は慌てた。
「一回だけじゃなく、十回。いや、三十回は付き合って」
一年に一度、登るとすれば、三十回なら三十年は一緒にいられる。
結季が嬉しそうに幸彦のところまで駆け下りてきた。
「気に入ったの? 山登り」
「うん、まあ、年に一回くらいなら」
「もっと行こうよ。夏の山もいいし、秋の山もいいし、冬は樹氷が見られるところもあるし」
幸彦は心の中で計算してみた。多めに見積もって年に十回行くとして……。
「じゃあ、三百回に増やしていい? 山頂で一緒にお弁当食べる回数」
結季はしばらく不思議そうに幸彦を見つめていたが、やがて、ぷっと噴き出した。
「変なプロポーズ!」
「えっ? いや、そういうつもりじゃ……」
幸彦の顔が真っ赤になった。そういうつもりじゃなかったら、何だろうか。
(俺は今、何を計算した?)
結季は幸彦の手を握った。そして、「じゃあ、まずは一回目!」と元気よく叫ぶと山頂に向けて歩き出した。
(つづく)
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