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第27話 あんころ餅と母の名言|2021年9月

 乳児の一挙一動は、見る人の心をなごませる。もうすぐ二歳になる繋(つなぐ)は、公園中の視線を集めて、小さな体であやういバランスで歩いていた。よちよちという擬態語がぴったりだったが、よちよち歩きではあっても、その動きは活発だ。草の前にしゃがみこんだり、立ち上がって歩き出したり。少しでも目を離すとどこかへ行ってしまいそうだ。


(幸彦と全然違う)


 と、真紀は思った。真紀の人生で始めに出会った赤ん坊は、妹の果穂だった。自分の子が生まれたときには、同じ赤ん坊でも全然違うと思ったが、それは男女の差だと思っていた。でも、そうではなかったらしい。幸彦はおとなしくて、のんびりしていて、誰かの真似ばかりする子どもだった。ひとつのことに興味を持ったらいつまでもそれを眺めていた。でも繋は好奇心旺盛で活発だ。誰の顔色も見ずに、ひとりでどんどん行動していく。どちらかというと母である果穂の幼少期に近い。


「可愛いですね。お孫さんですか?」
 若い母親が話しかけてきた。
「年の離れた妹の子なんです」
 と、真紀は答えた。
「へえ。では、ええっと……」
「甥っ子です」
「甥っ子さんですか! なるほど!」
 相手が感心しながら繋と真紀を見比べる。あっさりと納得してくれたことに、真紀は安堵した。


 真紀の息子の幸彦は、現在、二十七歳だ。結婚はまだまだ遠そうだが、年だけで言えば、繋くらいの子がいても全然おかしくない。だから最初のうちは、孫かと聞かれたときは、そうだと答えていた。ところが繋は真紀のことを「まー」と呼ぶ。聞いた相手は「ママ」の「まー」だと勘違いして、申し訳なさそうに恐縮し、その場がなんとも気まずくなってしまう。そうなってしまうと、真紀のほうも動揺する。相手は何も悪くないのだ。実は繋が妹の子で、妹が甥(つまり幸彦)からおばさんと呼ばれるのを嫌がって名前で呼ばせていたのを、今度は自分の息子にさせようとしていて、「まー」はママではなく将来的には「真紀ちゃん」という呼びかけになるはずだ、という、相手にとってはどうでもいいことを長々と説明してしまったことが何度かあって、恥ずかしかった。 


 かといって「甥です」と答えると、相手はよくわからないという顔をする。真紀と妹が十六歳も年が離れていることの説明を試みようとすると、今度は母が異なることも言う必要がある気がして、そうすると再婚した父が浮気性ではないことを弁解したくて、十一歳のときに母と死別したことを話してしまい、相手は沈痛な面持ちで何も言えなくなってしまうのだった。


 果穂に言わせれば、真紀のそんな態度は「気にしすぎ」なのだという。相手がわからない顔をしていても放っておけばいいと言う。真紀自身もそう思うのだが、なぜかこだわってしまう。自分はともかく、この世に誕生したばかりの繋や、妹や、父や、今の母や、自分を生んでくれた母のことを、少しも誤解されたくないと思ってしまう。それでついつい言葉が多くなってしまうのだった。


 繋が生まれて、ときどき子守りをするようになって初めて、真紀は自分の人生が、他人と違っていて、結構複雑であることに気がついた。いや、本当は誰の人生だって、複雑なのかもしれない。だけどみんな説明するのが面倒くさくて、言ってないだけなのかもしれない。


「まー!」
 繋が呼んでいる。屈託のない笑顔だ。いつの間にか、手が砂だらけになっているが、転んだわけではない。ずっと見ていたのに、いつ汚したのかわからなくて謎だった。しゃがんで指をさしている。何かを見つけたのだろうか。真紀はベンチから立ち上がって、繋のもとに駆け寄り、一緒にしゃがみこむ。
「どうしたの? ああ、あれは猫さんだ」
 幼い子どもはそばにいる大人の視線も心も独り占めしようとする。ほかのことをぼんやり考えたり、別の人と話が盛り上がったりすることを許さない。その代わり、彼の要求に応えれば、自分が彼の世界のすべてなのではないかと錯覚するほどの、窒息するような愛を返してくれる。うっとおしくて、いとおしい。自分と子が一体化するような感じは、怖くもあり幸せでもあった。

 真紀は、久しぶりに子育ての感覚を楽しんでいた。果穂が赤ん坊のときは、まだ十六歳だったから、その愛に窒息しそうになって苦しかった。幸彦のときも毎日毎日愛を浴びて溺れていた。でも今は、楽しむ余裕がある。孫をもったら、まさにこんな感じなのだろう。


「あのくらいの年齢のときは本当に可愛いですよね。もちろん今も可愛いですけど」
 先ほど話しかけてきた母親も近くにいた。彼女の視線の先には、三歳くらいの女の子がいる。繋を気にして見守っている。小さいながらも、しっかりお姉ちゃんをしているようだった。
「子どもはあっという間に成長しますものね」
真紀は言った。
「そうなんですよ。成長するのは嬉しいけど、もう少しゆっくりでもいいのにって、思っちゃいます」
「本当ですね」


 でも、真紀の場合は、うまくいけばもう一回、今度は孫の成長を楽しむことができる。時期をあけて赤ちゃんの成長に何度も立ち会えるなんて、なかなかお得な人生かもしれないと真紀は思った。


 繋を連れて、果穂の待つマンションに帰る。出迎えた果穂の表情は明るかった。すっかりリフレッシュしたようだった。今朝来たときは、げっそりとして死んだ目をしていたが、まさに生き返ったという感じだった。


 リビングには、あんころ餅が並んでいた。
「剛君の出張土産」
と言いながら、果穂はお茶の準備をする。繋がさっそく果穂にまとわりつくので、真紀が家事を交代した。果穂は繋を抱き上げる。繋は眠そうだった。


「お母さんの教えは偉大だよね」
 と、果穂が言った。真紀は笑う。
「一人でいる時間がないと枯れちゃうってやつ?」
「子どものときからしょっちゅう言われてたから、世の中の人はみんなそうかと思っていたよ。でも、全然そんなことなかった。ほかの人に言ったらびっくりされた」
「まあ、わたしたちのお母さんは極端だからね」


 一人でいる時間がないと枯れてしまうから、一人の時間を確保できないなら子どもを産まない、と、真紀の二人目の母は、きっぱりと宣言したのだ。真紀にとっては衝撃的だった。妹か弟が欲しいかと聞かれて、思春期なりに新婚夫婦である父母に気を使って、欲しいと答えたら、ときどき子守りをしてくれるなら生むと言われたのだ。父も同様のことを言われたようだった。父と真紀は子育てに協力することを誓った。そして、果穂が誕生した。 


 妹の子守りを手伝った代わりに、自分の子育てのときは母がよく協力してくれた。真紀が大丈夫だと言っても母は聞かなかった。勝手に押しかけてきて、泣きじゃくる赤ん坊の幸彦を取り上げ、外に放り出されたこともあったし、しょっちゅう果穂を寄越して幸彦の相手をさせた。幸彦に弟か妹が欲しかったのに叶わなかったから、果穂と幸彦が姉弟のように仲良く育ったのが嬉しかった。


「聞いてよ。剛君さ、リフレッシュするために家族でキャンプに行こうって言いだしたの」
 真紀は驚いた。
「無理でしょう? 繋を連れてキャンプなんて」
「でしょう? 俺が全部用意するからとか言ってさ。その間、わたしが繋をひとりで見るんじゃ、休めないのに。何がリフレッシュよ」
「なんで、急にキャンプなんか……」
「なんか、ゆきちゃんに言われたらしいの。自然はいいですよって」
 真紀は首を傾げた。幸彦がアウトドアに目覚めたなんて知らなかった。すぐに人の影響を受けるから、きっとまた誰かの受け売りだろう。


「ちょっと待ってて。繋をあっちに寝かせたらリフレやるから」
 繋を抱っこして果穂が、立ち上がる。
「別にいいのに。ゆっくりしたら?」
「させてよ。腕がなまっちゃう」
 果穂が繋と一緒に寝室に消えたので、真紀も立ち上がり、食器を流しに片付ける。


 隣の部屋から聞こえてくる果穂のでたらめな子守唄をBGMに、食器を洗い始める。
 勉強がよくできて有名な大学に進学し、大きな会社に就職した妹が、リフレクソロジストになってカメラマンと結婚しているのは、何度考えても不思議だった。それに比べて、自分の人生は平凡な気がした。特になりたい職業もなかったし、誰かと競争することも、名声を得ることも興味がなかった。人の上に立つことなんて、絶対にしたくなかった。昨年の始めに幸彦が一人暮らしを始めて、夫と二人の生活になったときは、ようやくお姉ちゃんの好きなことができるねと果穂に言われた。が、特にやりたいことを思いつかなかった。自分が空っぽになったような気がした。でも、最近はとても充実している。こうして果穂に頼られ、ときどき繋の面倒を見に来るようになったからだ。真紀は、繋と果穂の面倒を見るようになって生き返った。それで、真紀は、ようやく自分のことを理解した。
(一人でいる時間も大切だけど、わたしは、誰かの世話をしていないと枯れてしまうんだ)


「お待たせ。こっち来て」
 果穂の声はうきうきと弾んで明るい。リフレをするのが楽しくてしょうがないのだろう。回り道をしてようやく自分の好きなことを見つけた妹をいつもまぶしく感じていたが、十六歳のとき、生まれてくる弟か妹の面倒を見ると誓ったあの時から、真紀は自分が好きなことを選択して生きてきたのだ。そう考えると、これまでの人生の道のりがきらきらと輝いて、前よりも自分のことを誇らしく思えた。

(つづく)

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