第7話 海と白い光|2015年1月
灰色の砂からビンやライターやプラスチックの袋が顔を出している。夏の海水浴客が落としていったものだろう。まだ半年も経っていないはずだ。それなのに、それらは何世紀も前から置かれているようにみすぼらしかった。
流木。海藻の切れ端。空き缶。無意識に数えあげながら歩いていた果穂は、ふと顔を上げた。一緒に来た甲本結季はずいぶん先を歩いている。砂に足を取られ、向かい風に阻まれ、歩きにくそうにしながらも、波打ち際を目指して歩いている。よちよちと体を揺らしながら一生懸命歩いている様子は、卵からかえったウミガメの子どもみたいだった。
波の近くまでたどりつくと、結季は足を止めて振り返った。長い髪の毛が風にもてあそばれて顔を覆っている。何か言った。声は波の音に打ち消される。
「なに?」
大声で聞き返す。
「死ぬほど寒い」
それは海に行きたいと結季が言ったとき、果穂が返したセリフそのままだった。
「だから言ったじゃない」
「でも我慢する。海、きれいだから。来てよかった。寒いけど」
果穂は足を速めて結季の隣に追いついた。潮のにおいが鼻をさした。空はここ最近ではめずらしく晴れわたり、海は、日の光を反射してキラキラと輝いている。この寒ささえなければいつまでも見ていたいような光景だった。あまりにもきれいで現実味がなくて、隣に結季がいることが不思議で、まるで夢の中にいるようだと果穂は思った。
初めて結季が店に現れたとき、名前を聞かなくてもすぐに、甲本隆の娘だと分かった。結季の顔は隆によく似ていて、とたんに懐かしさと悲しさがこみあげた。この子には何を言われても仕方がないと思って覚悟を決めたのに、結季は父親の話を一切しなかった。それから、どういうつもりかわからないけれど、ただのお客さんとして通ってくれるようになった。結季が何も言わない以上、果穂にできることは心をこめてリフレクソロジーの施術を行うことだけだった。恋の悩みも聞いた。大学生活の話も聞いた。そこには甥っ子の幸彦も登場した。結季とは気が合うような気がした。長い間しゃべっていてもつかれなかった。楽しかった。年の離れた友人ができたような幸せな時間だった。そして今日、仕事を離れて、初めてふたりで遠出をした。
「今、ここでなら、何でも言えそうな気がする」
横顔を見せたままの結季を見て、夢の時間はもう終わったのだ、と果穂は思った。
「何でも言っていいよ」
と、果穂は穏やかな気持ちで言った。それから、もし自分が結季の立場だったら何を言うだろうかと想像してみた。けれど、海風が冷たくて波の音がうるさくて、何も思い浮かばなかった。
「わたしね、お母さん、大っ嫌い」
果穂は耳を疑った。
「え? 何言ってるの?」
「何でも言っていいって、言ったでしょう。最後まで聞いて」
結季は叫ぶように言った。風が言葉を吹き飛ばしていく。
「お母さんなんて、大嫌い。毎日毎日、不幸だ不幸だって愚痴ばかり言っていて、自分では何も変わろうとしないくせに、人のことはあれも駄目これも駄目と決めつけて、お父さんのことも見下していて、ただお金持って帰る人くらいにしか思ってなくて、自分でお金を稼いだこともないくせに、まるでわたしたちのせいで自分が不幸になったみたいな顔をして。だから、お父さんがあなたみたいな若くてきれいな人と恋愛してるって知ったとき、ざまあみろって思ったんだ。ざまあみろ。そんなんだから、お父さんにも愛想をつかされたんだ。わたしももう嫌だった。家を出たかったから、わざわざ遠くの大学を受けたんだ。お父さんに、あなたとのことはお母さんに黙ってるから、離婚しても構わないから、大学出るまでは学費を出してって頼んだの。そうしたら、お父さん慌てて、謝って、しばらくして別れたって言ってきて、戻ってきて、お母さんに優しくなって、わたしは東京の大学を受けて、今は三人で暮らしている。お母さんはやっぱり前と同じように、不幸だ不幸だって言い続けているの。だから大っ嫌い」
結季の顔は青ざめていた。大っ嫌いと言いながら、大っ嫌いと言われたような傷ついた顔をしていた。果穂は動揺した。何かを言わなければ、と焦って口を開いた。
「大っ嫌いはどうでもいいとは違うから、大丈夫だよ」
「大丈夫って何が?」
「何がって、よくわからないけど大丈夫だよ」
こんなことを言いたいんじゃないのに、と果穂は思った。もっと伝えないといけないことがあるはずなのに、言葉が出てこなかった。
「わたし、果穂さんにずっと言いたかったことがあるんだけど」
「何?」
たたみかけるように言うと、結季はじっと果穂を見て、それから笑った。
「お父さんのこと、幸せにしてくれてありがとう」
「何言ってるの? おかしいよ」
「おかしいかな? だって、わたしじゃ、お母さんもお父さんも幸せにしてあげられないから。まあ、わたしが生まれたことがふたりの不幸の始まりだから、しょうがないけどね」
驚きすぎて、果穂はまたしても言葉が出なかった。
「そんなに目を丸くしなくてもいいのに。よくある話だよ」
果穂は結季を見つめた。よくある話かもしれないけれど、そんなことを自分で言う子供はいない。結季は笑っていた。晴れ晴れと笑っていた。その明るさが果穂には無性に悲しかった。
「見て見て。晴れてるのに、雪、降ってる」
結季がはしゃいだ声をあげて、果穂の腕を揺さぶった。
「知ってる? こういう晴れた日の雪、風花って言うんだよ。すごいめずらしい現象なんだって。お父さんが言ってた」
知ってるよ、と果穂は声に出さずに答えた。すごくめずらしい現象で、昔一度だけそれを見たんだとあの人は言っていた。あたりは晴れ渡っていて、あたたかくて、まるで春みたいなのに、きらきらと雪が降ってきて、美しくて、まるで奇跡のようだったって。子供が生まれたら、ゆきって名付けようってそのとき思ったんだって。冷たい冬の空を思わせる「雪」の字は使わずに別の字を使って、ゆき、と呼ぶたびに、この奇跡のような光景を思い出せるように。
「分かる? ちょっと見えにくいけれど、ほら、降ってる」
分かんないよ、と、果穂はつぶやいた。名前の話をしなくては、と思うのに、喉が詰まってうまくしゃべれなかった。ぬぐってもぬぐっても涙が湧いてきて、空を見上げても見えたのはまぶしい白い光だけだった。
(つづく)
絵・木村友昭
初出:日本リフレクソロジスト認定機構会報誌「Holos」2015年1月号
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