第22話 赤ん坊と日替わり定食|2020年1月

 こんなにも頼りない生き物が育って人間になるなんて、幸彦には信じられなかった。生まれて初めて赤ん坊を抱いた。目も鼻も口も指も、何もかもが小さかった。体が熱く、ぐにゃぐにゃと柔らかかった。うっかり落としてしまったり、変な方向へ首を曲げてしまったりしないか心配で、緊張してしまう。下手に動けない。最初に教えてもらった通りの姿勢をできるだけ維持するようつとめた。

 一方、幸彦に抱かれている赤ん坊の方は、なんの警戒心もなくリラックスしてすやすやと寝ていた。今まで赤ん坊や小さな子どもを可愛いと思ったことがなかった幸彦だったが、こんなにも無防備に自分に身を任している果穂の子どもを見ていると、人並みに「可愛い」という思いが湧いた。そして、そんなふうに思えたことに少し安堵した。
「幸彦もこれで、叔父さんだな」
 と、父が言った。そう言われると複雑な気分だった。まだ二十五歳だ。「おじさん」という響きは不本意だ。だけど、幸彦が生まれたとき果穂は十五歳だったはずだ。十五歳で「おばさん」になるのはどんな気持ちだったのだろう。
「叔父さんじゃないわよ、果穂はわたしの妹なんだから」
 と、母が言った。
「ああ、そうか。果穂ちゃんは幸彦の叔母になるのか。じゃあ、叔母の息子は何ていうんだ?」
 父と母はふたりして首をひねっている。幸彦も思いつかなかった。途方に暮れて腕の中の赤ん坊を見つめた。
「いとこ」
 キッチンで作業していた果穂が戻ってきた。
「いとこ……」
 父と母と幸彦はいっせいにつぶやいた。言われてみればその通りだった。年が離れすぎていて、その発想がなかった。
「よく寝てる。ゆきちゃん、抱っこするの、上手いじゃない」
 果穂が近づいてきたので交替するのかと思ったら、そのまま幸彦の前を通り過ぎてソファーに座った。ノンカフェインのコーヒーを片手にお菓子を食べながら幸彦の母と話し始める。
 幸彦は腕の中のいとこを見つめた。いとこということは、将来、この子が話すようになったら「おじさん」ではなく「兄ちゃん」と呼ばれるのだ。兄弟のいない幸彦には、くすぐったいような気分だった。同時に、もういつまでも甘えていられないという気がした。
「これから人生を始めるなんて、大変だなあ」
 赤ん坊に話しかけてみたら、
「なに年寄りくさいこと言ってるの。ひとのこと言ってる場合じゃないでしょう」
 と、母に言われた。幸彦は動揺した。そのとおりだ。今の幸彦は自分の人生に何のプランもない。結婚に関しても、仕事に関しても。このままではダメだという自覚はあった。数年前は自分と同じようにふらふらしていた果穂が、結婚し、母親になった。そのことが幸彦を焦らせていた。幸彦の動揺が伝わったのか、赤ん坊が急にぐずり始めた。慌てて果穂に返す。小さないとこに頼りにされる大人にならなくては、と幸彦は思った。腕にはまだ暖かな熱とミルクの香りが残っていた。  

 果穂が幸彦の家にいるのは夫である室田とケンカをしたからだ。原因は写真だ。報道カメラマンの室田に、子どもの写真を撮ってと頼んだら断られた。
果穂の言い分はこうである。
「プロのプライドか何か知らないけど、そんなもののせいで自分の子どもの写真も残せないならカメラマンなんてやめればいいのに」
 実際に室田にもそう言ったらしい。だが、室田は言い返すことなく黙ってしまった。果穂としては大いに不満である。
 この話は幸彦だけが聞いた。幸彦の父母には、ケンカしていることなどみじんも感じさせない様子で、室田の話をしていたのに、部屋にやってきてとうとうと語ったのだ。
「どう思う? ゆきちゃん」
 幸彦に言えることなどなかった。室田の思考はまったく想像できない。果穂も幸彦の意見など、期待はしていないだろう。つまり幸彦の次のミッションは、会社の先輩でもある室田から、話を聞き出すことだった。
 
 次の日、幸彦は会社に行くと、室田と二人きりになれるチャンスを探した。ところが室田のほうも幸彦と話したいことがあるらしかった。おかげで、お互いにアイコンタクトを交わし合い、お忍びデートみたいな雰囲気でランチに行くことになり、その様子を見ていた編集長からは、「お前ら気持ち悪いな」と言われる羽目になった。よく考えたら、変にこそこそとタイミングをうかがったりする必要はなかった。スマホという現代の利器を使い、メールをして、店で待ち合わせればよかった。


 ランチに選んだ店はとんかつ屋だった。
「俺の奢りだ。特上ロースを頼んでもいいぞ」
 と、室田は言ったが、特上ロース分の責任を負いたくなかったので、幸彦は一番安い日替わり定食を注文した。室田はしばらく迷っていたが、幸彦と同じ定食を選び、ご飯を大盛りでと言い添えた。
 店員が去ると、妙な沈黙が二人の間に居座った。いつもひとりでしゃべり続けている室田が黙っている。何だか、ただ事ではない。
「生まれて初めて、赤ちゃん抱っこしました」
 幸彦が会話の口火を切った。当たり障りのないところから作戦だ。
「何だか頼りなくて守ってあげなきゃ死んじゃいそうで、でもそれが育って人間になっていくんだなと思ったら、生命の神秘を感じたというか、自分の人生を振り返る機会になったというか」
「俺の子で勝手に人生悟って、ちょっとむかつく」
「はあ?」
 部屋中に響く声が出た。室田とは結構長い付き合いになるが、今まで投げられた言葉の中で一番不条理なセリフだと、幸彦は思った。
「もとはといえば、室田さんが果穂とケンカするからいけないんでしょう。それで果穂がうちに来て」
「人の妻を呼び捨てにして、さらにむかつく」
 幸彦は目を見開いて室田を見つめた。こっちは生まれたときから果穂と一緒にいるのだ。というか、これは、ただ八つ当たりをされているだけではないか。幸彦は小さないとこの寝息を思い出して自分を落ち着けた。ここは兄ちゃんに任しとけ、と心の中でつぶやく。
「何があったんですか?」
 努めて冷静で優しい口調で幸彦は聞いた。今度は室田は小学生のように唇を突き出して、ふてくされた顔をして黙ってしまった。
(何なんだよ……)
 これではらちがあかない。
「果穂から聞きましたよ。子どもの写真を撮りたくないって言ったとか。プロだからこそ、撮れないって、なんかわかる気がするな。やっぱり我が子となると、主観的になりすぎるというか、わきが甘くなるというか。納得いく作品にならないんですよね。外科医も家族の手術は自分でしないって言うじゃないですか。それと同じですね」
 そこまで話して、幸彦は室田をちらりと見た。室田への共感を示して、本音を聞き出そう作戦である。それが効を奏したのか、室田が口を開きかけたそのとき、定食がふたつ運ばれてきて作戦は強制的に中断された。
「とりあえず、食べましょう」
 と、幸彦は言った。腹が減っていると室田は機嫌が悪くなるのだ。まずは食べてもらった方がいい。日替わり定食はとんかつとクリームコロッケ。それにみそ汁と山盛りのキャベツとごはんがついている。とんかつは揚げたてで、口の中がやけどしそうになったが、おいしかった。食べているうちに満ち足りた気持ちになって、室田と果穂のケンカがどうでもよくなってきた。ふたりのことは幸彦にはよくわからない。なんだかんだ言って、幸彦が何をしなくても勝手に解決するだろう。
「その逆だ」
 ぽつりと室田が言った。幸彦はキャベツにドレッシングをかけようとしていたとこだった。
「え? 逆ですか?」
 ドレッシングのボトルを確かめる。特に変わったところはない。
「主観的になりすぎるんじゃなくて、客観的になるのが嫌なんだ」
 さっきの話の続きのようだ。室田の食器はすべて空になっている。幸彦は黙ってキャベツにドレッシングをかけた。
「子どもが可愛くてたまらない。本当に何を犠牲にしても守りたいくらい可愛いんだ。こんな気持ち初めてなんだ。でも、カメラを構えたとたん、俺はカメラマンの目になり、我が子は被写体になる。それが恐ろしい。だから撮りたくない」
 口の中いっぱいにキャベツを詰め込んでいる幸彦は何も言えなかった。そういえば、室田が果穂を撮った写真もあまり見たことがない。ポートレートは得意じゃないから、と果穂には言っているらしいが、仕事を一緒にしている幸彦は、室田が何でも撮れるのを知っている。
「……って幸彦に言っても仕方ないな。果穂に言うわ」
 室田がそう言ったので、幸彦はキャベツを飲み込んで頷いた。
「俺が撮りますよ、三人の写真」
 プロを前に何を言ってるんだと笑われるつもりで提案したが、室田は大真面目にうなずいた。
「それはいいな。ぜひ、撮りにきてくれ」
「俺でいいんですか?」
「数打ちゃ当たるだろ」
 そう言って笑う様子はいつもの室田だった。数年後、自分が撮った写真を見ていとこは何を思うのだろう。そして自分はその頃、何をしているのだろう。未来を思うと途方に暮れる。でも確実に未来はやってくるのだ。幸彦は大きなため息をついた。

(つづく)

初出:日本リフレクソロジスト認定機構(JREC)会報誌『Holos』

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。゚(゚´Д`゚)゚。ありがとうございます…!
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京都在住の小説家です。理系ライターもやっています。
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