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第23話 ひさしぶりの休日とバーベキュー(再び)| 2020年5月

 その家には呼び鈴がなかった。少し後戻りして小さな門のところまで戻っても、インターホンのようなものはどこにもない。

 果穂は父方の祖父の家を思い出した。畑の隣に建つ一軒家。訪れた近所の人や郵便屋は引き戸を勝手にガラガラと開けて「こんにちは」と家の中に向けて声を放つ。マンションでしか暮らしたことがなかった果穂は、子ども心にその様子が面白かった。

(あんなふうに自然にあいさつができるだろうか)

 果穂は緊張をほぐすために深呼吸してから、引き戸に手をかけた。思っていたより軽かった。中は薄暗い。初夏なのにひんやりとしている。

「こんにちは」

 かすれて弱々しい声だった。こんな調子では聞こえないだろうと反省したそのとき、奥のほうで闇が揺れて、白髪の老婦人が現れた。初めまして、と言いそうになった果穂は、婦人の顔が案外若々しいことに気がついて、あ、と声を出した。

「真理子先生」

 そう呼ぶと懐かしさに胸がいっぱいになった。田中真理子。果穂のリフレクソロジーの師匠だ。師匠といっても、弟子入りしたわけではなく、真理子の主宰するスクールに一年間通っていたというだけだったが。

「ひさしぶりね。この奥でやるから。あがって」

 声は確かに本人だが姿は別人だ。果穂は靴を脱ぐのも忘れて、真理子を見つめた。かつての真理子は、都会的でクールな女性だった。栗色の髪をきっちりとまとめて、白衣をまとい、はきはきと説明しながら颯爽と実演していた。それから五年しか経っていないのに、無造作なショートヘアの半分は白髪になり、ゆったりとしたシルエットの生成りのワンピースに身を包んでいた。

「これでしょ?」

 真理子は自分の髪をなでた。

「染めるの、やめたの。最初は鏡を見るたびに嫌な気持ちになってたけど、毎日見てると、だんだん慣れてきた」

「……慣れるのかな?」

 思わずつぶやいた果穂の言葉を真理子は拾い上げた。

「慣れるのよ。人間、何でも。果穂さんもそうでしょ?」 

「そうかも」

 確かにずいぶんいろいろなことに慣れてきた、と果穂は思った。起こる前は想像もできなかったことや、つらくて耐えられないのではないかと思うようなことも乗り越えて今を生きている。

「だから、何に慣れて、何に慣れないようにするか、ちゃんと選んでいかなくちゃ」

「選ぶんですか?」

「そう。慣れてはいけないこともあるでしょう?」

 果穂はうなずいた。慣れてはいけないこと――それが何かはとっさに思い浮かばなかったが、慣れてはいけないことは確かにある。そう思ったことを、忘れないでいようと決意した。

 肌触りのいいリネンの簡易服に着替えながら、果穂は窓から聞こえてくる鳥の声に耳を澄ました。今日はひさしぶりの休日だった。赤ん坊を剛に任せて、好きなことをしていい日だ。

 子どもが生まれてから初めての休日。何をするか、さんざん迷って、リフレを受けることに決めた。休みの日まで仕事のことばかり、と剛に笑われたが、するのとしてもらうのでは大違いだ。貴重な休みにハズレを引きたくないから、かつての師匠を探した。ネットで調べても見つからなくて、人づてに聞いてここへたどりついた。以前は都会のど真ん中でいくつもサロンを経営していた真理子だったが、今は自宅を兼ねたここでだけリフレをやっているようだった。

「五年間か」

 真理子がつぶやいた。あたたかい手に丁寧に脚をほぐされていく。果穂は何だか泣きたいような気持ちになった。

「変わったね、この脚も」

「リフレクソロジストの脚になりました?」

「うん、ちゃんとなってる。……なんてね。脚でわかるわけないけど」

 ふたりは笑った。笑いながらも、果穂は、本当は真理子には何もかも伝わっているんじゃないかという気がした。だから、真理子の言葉が嬉しかった。

 五年前、会社をやめて独立したいと相談をもちかけた果穂に、真理子は何の迷いもなく、やってみなさいと言った。そして、こう付け加えた。

――変わっていく自分を楽しんで。

 その瞬間、迷いがほどけて目の前が明るくなった。変わってもいいんだ、と驚いたのだ。初志貫徹、一貫性、目標に向かってまっすぐ突き進む。そういう価値観に囲まれて育った果穂は、変わることはよくないことだと思いこんでいた。真理子の言葉は、果穂を呪縛から解放した。
 今、また果穂は、大きく変わっている最中だ。子どもが生まれるというのは、人生における大きな革命だ。今までの常識が軒並み通じなくなる。果穂の世界は、子どもを中心に回るようになり、狭く深くなった。子どもに対しては鋭敏になり、世界に対して鈍感になった。十年前の果穂なら、そんな人間を嫌悪していたかもしれない。今は、ただ、楽しもうと決めた。どうしようもなく避けられないことなのだから、変わっていく自分を楽しまないと損な気がする。そう思えるようになったのも、やっぱり真理子の言葉のおかげだった。

「ひさしぶりの真理子先生のリフレ、とてもいいです」

「以前と変わった?」

「変わりません」

 そう答えてから果穂は言いなおした。

「やっぱり変わりました。変わってないところと変わったところがあって、前の真理子先生も今の真理子先生もわたしは好きです」

「そう」

 ふふふ、と真理子が笑った。その笑い声に心底安心して、果穂は目をつむった。そして真理子の手に自分をゆだねた。血がめぐっていく。命が目覚めていく。もっと早くここへ来ればよかった、と果穂は思った。日々に追われていたことを言い訳にしていたけれど、間が空くとどんどん訪ねづらくなった。自分のことなんて覚えていないんじゃないか、忙しいのに迷惑なんじゃないか、なんてためらってぐずぐずした。

 でも、行動したら、つながった。長年の重荷から解放されただけでなく、新しいドアが開いて知らない景色が見えたようなわくわくした気持ちだった。果穂は剛の言葉を思い出した。

――つながると新たなものが生みだされる。

 好きな言葉は何かという話をしていたときだ。剛は「つながる」と答えた。酔っぱらったときに言ったので、本人はすっかり忘れているけれど、果穂の心に強く刻まれた。それで息子の名前は「つなぐ」にした。漢字一文字で「繋」だ。剛は、つな、と呼ぶ。おむすびの具みたいだからやめてと果穂が言っても聞いてくれない。

(繋と剛くんは、ちゃんとやってるかな?) 

 思い出したら、とたんに恋しくなった。あれだけ一人の時間を待ち焦がれていたのに、困ったものだと果穂は苦笑した。

■□

「お忙しい中、『第二回花だった見会』にお集まりいただきありがとうございます。ふたたびここで、こうして同じメンバーで開催できたことを心から嬉しく思います」

 缶ビールを掲げた姿勢で、佐々木が乾杯のあいさつを述べた。聞いているのは幸彦と甲本結季のふたりだけだ。いや、結季は聞いていないかもしれない。ビールを顔の前に掲げて自撮りをしている。

「乾杯!」

「あ、ちょっと待って」

 ようやく飲める、と思ったのに、結季が許さなかった。三つの缶が集まった瞬間の写真を撮り終えて、ようやくおあずけが解除される。

「ぷはーっ。ああ、うまい」

 一口飲んだ幸彦が声をあげると、おやじくさいと言って佐々木が笑った。

「さっきのあいさつのほうが、よっぽどおやじくさい」

「いいんだよ。俺は正真正銘、おやじだから」

 一度社会人をしてから再び大学に入りなおした佐々木は、幸彦より六歳年上だ。でも、看護師として忙しく働いているせいだろうか。大学時代よりも体も顔も引き締まって若々しく見えた。

「今日も『花だった見会』なの? もう普通にゴールデンウィークのバーベキューでよくない?」

 第一回花だった見会では酔っぱらってやさぐれていた結季だったが、今日はせっせと肉を焼いている。

「それだと、第二回って言えないじゃないか」

「じゃあ、またやるの?」

「やるよ。何年後になるかわからないけど。次は結婚して子ども連れだったりして」

 結婚という言葉を聞いて幸彦は内心焦った。幸彦は今、二十六歳だ。結季と付き合って三年目。まだ早いのか、そろそろなのか、結季がどう考えているのか怖くて確かめたことがない。

「結婚かあ。どうする? 幸くん」

 結季がド直球の言葉を投げたので、幸彦はビールを噴き出した。顔が真っ赤になる。佐々木がにやにやしながら見ている。このふたりが一緒になると幸彦をからかいはじめるのだ。

「結婚もいいなあって思ったよ。果穂を見てたら」

 やけくそになって幸彦は素直に言った。へえ、と言いながら結季はにこにこしている。

「まあ、でも、人生、何が起こるかわからないしね」

(それって、つまり、どういう意味?)

 もやもやしている幸彦の肩を慰めるように佐々木がたたいて、

「ああ、第三回が今から楽しみだなあ」

 と、言った。

(つづく)

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