見出し画像

第24話 写真展と赤門ラーメン |2020年10月

 その写真を最初に見たのは、果穂が十九歳のときだった。 

 浪人生として家と予備校を往復する毎日を送っていた果穂は、その日、初めて、予備校をさぼった。勉強は嫌いではなかったし、講師の授業も面白かった。高校と違って、グループで行動したり人の目を気にしたりする必要もなかったから過ごしやすかった。 

 だけど、ふと、このままでいいのだろうかと考え始めたら、うまくやっていけなくなった。周りの流れについていけなくなった。今まで何の疑問もなく歩いていたのに、突然足がもつれて、考えれば考えるほど、どうやって歩いていたのかわからなくなったような感じだ。もっと言えば、どうやって生きていけばわからなくなった。 

 自分の歩き方を思い出すために、果穂は、駅の改札を出て予備校とは反対方向に歩いて街に向かった。そして、人ごみにまぎれて当てもなく歩いたあとに、偶然通りかかったギャラリーで行われていた入場無料の写真展にふらりと入って、その写真に出会った。 

 ポスターを横長にしたような大きな写真だった。額装ではなくパネル張りされている。写っていたのは、日本ではない光景だ。硬そうな植物が生え、木造の小屋がたくさん立っている。土煙が舞っているのか、無数の小さな虫が飛び交っているのか、遠くの方は鮮明には見えない。写真の中央には当時の果穂と同じ歳くらいの女の子が立っていた。泥まみれの布を体に巻き、真っ直ぐな強い視線がこちらに向けられていた。 

 ひきこまれる写真なのに、見ていると落ち着かなかった。鑑賞しているのは自分のはずなのに、「彼女」に見られている感じがした。 

「それ、今年の春に撮った写真なんだ」 

 男の声がした。果穂のよく知っている声だったので、驚いて振り返った。立っていたのは、通っている予備校の数学講師だった。慌てて写真の説明を見た。そこには室田剛という名前が記してある。無機質な研究室で計算ばかりしている、それが果穂の抱いている「室田先生」のイメージだった。こんな写真を撮るなんて、信じられなかった。 

「どう思った?」 

 そう聞かれて果穂は考え込んだ。よかったとか、よくわからないとか、適当に答えたらいいのに、それができなかった。 

「ざわざわする」 

 ようやく出てきた言葉は、あまりポジティブなものではなかった。嫌な気持ちではないのだとわかってもらうために、果穂は急いで言葉を続けた。 

「この子に見られてる感じがする」 

「へえ」 

 室田が面白そうに目を輝かせた。失礼な感想かもしれないと思っていた果穂は、その表情にほっとした。 

「それがざわざわの正体?」 

「たぶん」 

 そう言ってから、果穂は再び考えこんだ。 

「わたしの知らなかった世界、知らないままで済ませようとした世界と、強制的につなげられた感じかな……。知らないままでいたかったのに、なんてことをしてくれるんだって、ちょっと腹が立つ。あと、すごく怖い。でも、目が離せなくて、なぜか嫌じゃない」 

 沈黙が流れた。 
 今度こそ怒らせたのかと思って、果穂は恐る恐る室田の顔を見上げた。 
 室田は額に手を当てて、目をつむっていた。 

「あの……」 

「ちょっと待って。落ち着くから」 

 室田は手のひらを果穂に向けて言葉を制すると、自分をなだめるように深々と息を吐いてから目を開けて、果穂をじっと見つめた。 

「ここが日本じゃなかったら抱きつくんだけど、それしたら、きっと俺、捕まるからなあ」 

「……えっ?」 

 果穂は一歩後退りした。 

「いや、だから、そういう変な意味じゃなくて。ああ、もううまく説明できないけど」 

 室田が焦っている。いつものクールな様子と全然違って、何だか可愛らしかった。果穂は室田に好感を持った。いや、もっと言えば好きになった。十代の多感な少女は、いともたやすく恋に落ちる。 

「とにかく、ありがとう。すっごい嬉しい感想だった」 

 果穂は無言でこくこくとうなずいた。あんな感想が嬉しいなんて訳がわからなかったが、室田を恋の相手として意識してしまったせいで、緊張して言葉が出てこない。 

「あ、待って。これをあげよう」 

 渡されたのは、展示してある写真を印刷したポストカードだった。売り物のようだが、室田は金はいらないと果穂に押しつけた。 

「また、予備校で」 

 ギャラリーを出るときに、そう言われた。 

(覚えていてくれた……) 

 嬉しかった。室田は若くて見映えがよく、女子生徒たちから人気だった。文系の果穂は、数学講師の室田と交流はほとんどなく、週に一度授業を受けるだけで、室田に興味があっても、ほかの生徒たちを押し分けて質問に行く情熱もなかった。遠くから見ていただけだ。だから、自分のことは覚えていないだろうと思っていた。 

 若気の至りというのはまさにこういうことを言うのだろう。果穂はその年の終わりに室田に想いを告げた。質問受付の順番待ちをして、自分の番が来たら、室田の前に座って「好きです。付き合ってください」と書いた紙を差し出したのだ。写真展で話した時以来、あいさつくらいしか言葉を交わしていないのだから、果穂としては玉砕覚悟だった。入試が始まる前にさっさとふられてこの件を片づけてしまいたかった。 

 室田はその紙を見てしばらく思案していたが、やがて何か思いついたようにすらすらと書き始めた。周りから見ていたら数学の解法を教えてもらっているように見えただろう。 
 くるりとひっくり返して渡された紙には「合格したらね」と書いてあった。 予想外の答えに、果穂は動揺を抑えるのが大変だった。 

「志望校どこ?」 

「東大」 

 果穂が答えると、じゃあ俺の後輩だ、と室田は言った。 

「わかった?」 

 それ、と紙を指さされて果穂は動揺したままうなずいた。立ち上がって、ありがとうございました、と頭を下げて講師室を出たあとも動揺は止まらなかった。そんなにあっさりOKするはずがない。からかわれたのだろうか、と思うと悔しくなって、意地でも合格してやると決意した。もしかしたら、そうやってみんなを奮い立たせているのかもしれないとも疑ったが、三月になって、果穂が合格したことを告げにいくと室田は連絡先を教えてくれた。 

 大学を案内してくれるというので、初めて約束をして予備校の外で会った。果穂の方は、見るものすべてが珍しくて大学の見学で頭がいっぱいだったが、室田の方はデートのつもりだったらしい。始終、そわそわしていた。大学の名物だという真っ赤な赤門ラーメンを食べたら落ち着いたらしく、「落ちたらどうしようかと思った。もう一年待つとか、俺耐えられる自信がない」と言って、ため息をついた。そこで初めて、果穂は、自分が一方的に恋していたわけではないことを知った。 
 それから十五年の月日が経って、三十四歳になった果穂は、少し色あせてしまったポストカードの写真を目の前に掲げている。この写真に写っている女の子は、今は何をしているのだろうか。結婚して、新しい家族を作っているだろうか。彼女が今この写真を見たら何を思うのだろうか。

 ポストカードをアルバムの最初のページに戻す。次をめくると、息子の繋(つなぐ)と果穂と室田の三人の家族写真が現れる。甥の幸彦が撮った写真だ。お世辞にも、うまいとは言えない。それに果穂も室田も幸彦の前では気持ちが緩んでしまうから、なんだかだらしない顔をしている。だらしなくて、この上なく幸せそうだ。直視するのが恥ずかしいけれども、大切な写真だ。気に入っている。 

 その次をめくる。そこには、繋を抱いた果穂が写っていた。室田が撮った。でも、いつの間に撮られたのか、果穂は覚えていない。 
 あの写真と同じ構図で、まっすぐにこちらを見つめて立っている果穂の背後に写っているのは、この部屋の光景だった。見慣れている景色なのに、どこか遠くにつながっているような不思議な感じがする。 

 果穂は、幸彦が撮ってくれた写真と同じくらい、この写真を気に入っていた。写真家としての室田からは世界がこう見えている。どこで何をしていても、常に、別の世界とつながっている。世界は無数の人生によって編み上げられていることを、室田は常に写真を通して見る人に知らしめる。 

 赤ん坊のぐずる声が聞こえて、果穂はアルバムを閉じた。 

 繋を抱き上げる。あたたかくてやわらかい。ぽってりとした独特の重み。産毛の生えた汗ばんだ小さな頭に自分の顔をくっつける。いつまでもかいでいたい匂いだ。 
 もし、あの日、果穂が予備校をさぼらなかったら、この命は誕生していなかったかもしれないという考えがふいに頭をよぎる。 

(いい仕事したぞ、十九歳のわたし)

 将来、繋が一日くらい授業をさぼっても大目に見てやろうと、果穂は思うのだった。 

  (つづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?