第18話 午後三時の本屋とキャロットケーキ|2018年10月
平日の午後三時。書店には幸彦が思っていたよりもずっとたくさんの人がいた。
よく考えたら、幸彦は今まであまり書店を真面目に観察したことがなかった。漫画の新刊が出たときに立ち寄ることもあるが、どこででも売っているメジャーな作品なので、たいてい入り口近くで手に入る。一年前は就職関係の参考書を選びに来たこともあった。が、それ以来、訪問していない。出版社に就職したのに、本屋に行く暇がないなんて、なんだか本末転倒な感じがした。
就職してからは、毎日があまりにも目まぐるしく、あっという間に過ぎていった。社会人になってもう半年が経つなんて、幸彦はいまだに信じられなかった。
目当ての本がどこにあるのかわからずうろうろしていると、重い気分になってきた。この感覚には覚えがある。就活イベントであてもなくブースを回っていたときの、あの気の重さだ。ただのお客なら、この山ほどある本の中から好きなものを選べばいいだけだ。だが、本を作る仕事についた幸彦は、選ばれる側としてここにいる。そう思うと、群立する本の集団から逃げ出したくなる。
「お探しの本、よかったらお手伝いしましょうか?」
若い男の店員から声をかけられて、幸彦は素直にうなずいた。書名を告げると、
「ああ、それはムック本だから、こちらの棚ですね」
と、こともなげに店員は言って歩き始める。やせていて、眼鏡をかけていて、背が高く、本屋の店員のイメージそのままだ。タイトルを告げただけでわかるなんて、やはりプロはすごい、と幸彦は感心した。
「これですね」
店員の指し示した先には、幸彦が編集に関わった本が平積みされていた。
(本当に本屋で売ってた……)
幸彦は感動で言葉を失った。担当したのは細々とした(でも大量の)作業だけだったが、何しろ初めて世に送り出した我が子である。会社で見本を見るのと、本屋に置かれているのを見るのでは、まるで違うもののようだ。我が子の発表会を見る親の気持ちはこんな感じだろうか。
「あ、これ、僕も作ってるんです」
店員の視線を感じて、幸彦は思わず口走った。わざわざ案内してもらったのに買わないのも変だと思ったからだ。
「著者さんですか?」
「いえ、編集者です」
店員は真顔のまま、眼鏡越しに幸彦をじっと見た。
「創文社さんの……」
「はい」
変な間があった。
「今日はお仕事お休みですか?」
「いえ、手がけた本が発売されたから、ちょっと見てこいって上司に言われて」
「で、見てるんですか」
はい、と幸彦はにこにこしてうなずいた。店員はまだ幸彦をじっと見ている。
「たぶん、見てこいって、見るだけじゃないと思いますよ」
「へっ?」
幸彦は、ぽかんとして店員を見た。若い店員だと思っていたが、真正面から見ると結構ベテランのようだった。胸の名札に山下と書かれていた。聞き覚えのある名前だった。そういえば、桐生書店にはうちの本をひいきにしてくれる書店員さんがいると上司が話していて、その名前が山下さん……。
「ああっー!」
大きな声が出て、慌てて口をつぐんだ幸彦は、急いで姿勢を正すと、上着のポケットから名刺入れを取り出した。
「創文社の松本幸彦といいます。よろしくお願いします」
「はい、どうも。山下です」
山下さんは笑いもせず、ひょうひょうとした様子で幸彦から名刺を受け取った。
「ビジュアルがきれいなので、しばらくは面置きしておきます。ポップとかあれば設置しますから、お持ちください」
「ありがとうございます」
お礼を言って顔を上げる。体中から変な汗が流れた。山下さんに言われなかったら、会社に戻った幸彦は「置いてあるの、見てきました」と無邪気に報告して、そんなこと見なくても知ってると編集長にどやされ、室田からは大笑いされるところだった。
ふと見ると、山下さんはスーツを着ている誰かに話しかけられていた。どこか別の出版社の営業だろうか。世間話をしているようで、売れ行きやお客さんの傾向を山下さんに尋ねている。我が子の発表会だなんてのんきなことを思っている場合ではなかった。ステージに上げてもらうためには戦わなくてはならないのだ。
がんばらなきゃ、と思ったとたん、幸彦の周りを覆っていた薄膜が一枚はがれて世界がクリアに見えるようになった気がした。今までお客さんとして過ごしていた社会に、ようやく今、組み込まれた気がした。
慣れない仕事ながら必死で食らいついてがんばっている幸彦だが、一方で、恋の方もなかなか順調だった。
甲本さんと付き合い始めてもうすぐ一年になる。もともと長い付き合いの友人で、気心知れた気楽な仲だ。その延長で続いているといえばそうなのだけど、甲本さん自身がぎすぎすしたところがなくなって柔らかくなった。幸彦も腹を決めたので、少しは彼氏らしくなっているはずだ。
ただ、ひとつだけ不満があった。甲本さんと会うのが、主に甲本さんの家だということだ。
甲本さんの両親は離婚し、今はお母さんと甲本さんのふたり暮らしだ。 何度か行くうちに甲本さんのお母さんと幸彦は、すっかり仲良しになった。本人のリクエストで美鈴さんと呼んでいる。甲本さんがいなくてもふたりで楽しくおしゃべりできるほど、美鈴さんとは気が合う。
だが、しかし、幸彦はそれでは物足りない。まだまだ恋愛初心者だ。そして青春真っ盛りの二十代である。人目を気にせず、恋人といちゃいちゃしたい。
そのために、お金を貯めて、一人暮らしをする。それが最近の幸彦の目標だった。
その目標を忘れていたわけではないが、美鈴さんの手作りのキャロットケーキをほおばりながら、甲本さんが「旅行」という言葉を口にしたとき、幸彦は、思わず「いいね」と言ってしまった。
お金が減る。一人暮らしが遠ざかる。だが、遠い未来のいちゃいちゃより、すぐ手が届くところに訪れるかもしれないいちゃいちゃの誘惑に幸彦は抗えなかった。
「ほんと?」
甲本さんは顔を輝かせた。
「ゆきくん、旅行とか興味ないかと思った。じゃあ、聞いてみるね」
「誰に?」
「お母さん」
幸彦が止める間もなく、甲本さんが「お母さん!」と叫びながら部屋を出ていった。慌ててあとを追いかけたが、もう手遅れだった。
「ゆきくんも一緒に旅行に行きたいって」
「あら、楽しそう」
嬉しそうに話しているふたりを見て、甲本さんとふたりきりで行くつもりだったと言い出せる勇気は幸彦にはない。
「なんか変じゃないですか?」
恐る恐る言ってみた。
「まだ結婚もしていないのに」
「まだ、だって!」
甲本さんが幸彦をからかうようにはしゃいだ声をあげた。美鈴さんも一緒になって、はしゃいでいる。ふたりそろって幸彦をからかうのが好きなのだ。
「そうじゃなくて、せっかく親子水入らずなのに、僕が入ったら変ですって」
「なおさら、ちょうどいいじゃない」
と、美鈴さんが言った。
「これからの人生は、変なこと、たくさんしたいのよね」
これからの、ということは、これまではしてこなかったんだ、と幸彦は思った。そして、自分もしていないことに気がついた。
「じゃあ、僕も、してみます。変なこと」
幸彦が言うと、ふたりは嬉しそうに拍手をした。
(つづく)
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