見出し画像

魚梁瀬-台湾林業日記-2-太平山のふもとに行く

私は林業の基礎知識すらほぼ持ち合わせていませんでしたが、台湾のかつての林業を知るべく2019年はとにかく台湾の林業跡地を目指しました。

日本統治時代に台湾で林業が行われていたのは阿里山太平山大雪山です。1980年代に台湾は森林保護のために林業を一切廃止し森林保護することに方向転換したため、こうした跡地は現在人であふれる人気のレジャー観光スポットになっています。全て訪れることができます。

太平山のふもと、羅東へ 山のふもとに木は集まる

2019年の春、宜蘭県にある太平山を目指しました。といっても山ではなく、まずは山から下ろされてきた木材が集積されていた場所である羅東(ルオドン)という町へ。ここに整備されている林業跡地の観光施設「羅東林業文化園区」には、太平山からの木材集積地として使われていた羅東出張所時代の貯木池、森林鉄道の車体や線路、駅や林務局時代の建物が残されています。

画像1

画像2

▲日本統治時代の設備の跡地なので、今の台湾では作られない木造建築が残っています。

画像3

▲実際に使われていた森林鉄道です。

太平山は日本統治時代の林業においてもいち早く林業開発が行われた山で、開発に着手したのは1914年のことです。ここから切り出されたヒノキは森林鉄道に乗って運ばれ、羅東出張所へと運ばれていました。一連の設備は日本統治時代に整備されたのですが、それはそれは大変な距離を山から羅東まで運び、さらに宜蘭の海から日本へと運ばれていったのでした。

名称未設定のアートワーク 4

林業がおこると、町は賑わう

羅東までの鉄道が整備され木材集積地ができると、自然と木材関連の産業がおこりました。製材や木材加工のありとあらゆる職業が日本の林業とともに流入し、さかんに生産される木材とともに羅東の町も急速に発展していきました。木材商業公会は30社から250社に増え外部の木材関係業者も行き来するようになり自然と町には旅館やデパート、レストラン、酒場や映画館などができます。羅東は宜蘭県でも最大の商業都市になりました。

私が住む馬路村も全く同様の発展の仕方をしましたが、それは今後の記事でまとめてお伝えしたいと思います。

画像4

▲羅東出張所も木造の建物。日本国旗が掲げられています。

台湾ヒノキは戦争に燃えてゆく

太平山の木材生産量は1943年に最盛期を向かえ、三大林場の中でもトップの生産量でした。森林鉄道の経営もピークとなり、乗客は19万人以上いたようです。この生産量アップの背景には軍事用資材の需要の高まりがあります。太平洋戦争末期に生産された木材は日本へ渡り、全て軍用材となって燃えて行きました。戦地で木材ってどんなふうに使われていたのでしょう。単なる燃料でしょうか。

太平山へ

さて、森林鉄道の乗客が19万人もいたということは、山と町をそれだけの人が行き来していた、つまり山にも相当の人が住んでいました。木は勝手に倒れて勝手に運ばれてくるわけではありません。山に拠点をかまえ、町をかまえ、設備をかまえ林業に生活を捧げた人々がせっせと日本へ運ぶ木材を生産していたわけです。

羅東の次は、太平山に入り、かつて日本人が切り開き作り上げ、そして残していった町と山の様子を見に行きました。

================

【webstore】
馬路村・魚梁瀬で制作した木の器やアクセサリーを販売中
天然の魚梁瀬杉や馬路村のゆずの木を使用しています
www.yamanote.stores.jp

▼山とてHP
www.yamanote.com
▼instagram
https://www.instagram.com/yamatote.kanade/?hl=ja

================


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?