離れがたき古里 赤坂の話がしたい 12
「赤坂に、住むところなんてあるの?」と、よく聞かれる。
確かに、東京を代表する繁華街で、暮らすイメージはない。
僕自身、大学5年間のうち、赤坂には足を踏み入れたこともない。バブルの最中、六本木や赤坂といった高級感のある街に、貧乏学生の僕は拒否感があったのだ。
今の部屋は、ネットで妻が見つけた。首都直下地震はいずれ、そう遠くないうちに起こる。自分が地震から生き延びていたら、TBSまで走っていきたいと思った。橋や地下鉄があってはダメだ。
それに、勝海舟…。今はコンクリートの街だが、麟太郎さんの足跡でも感じることはできないだろうか。そして、赤坂でひと部屋を借りた。
実際赤坂に来てみると、赤坂見附方面はかなりの飲食店街だが、中ノ町あたりでは一歩路地を入ればワンルームかなというマンションや、一軒家もかなりある。
町会のみなさんは、ほとんどが赤坂の生まれ育ちだ。ビルのオーナーが多い。「お金持ちなんだよなー」と内心では思っていた。ところが、いろいろな話を聞くにつけ、そんな一面的なものではないことがわかってきた。
みんな、昭和の悪ガキだった。赤坂小学校、赤坂中学校、幼いころから、悪いことばかりしている。タカシさんも、若いころはお母さんを泣かせたらしい。
家は自営の人が多く、魚屋さんだったり、氷屋さんだったり。もちろん、花柳界や芸能界があるので、華やかな一面もあるのだが、普通の庶民の生活ももちろんあった。
ところが、経済成長が始まると、地価が上がり始めた。魚屋さんも、氷屋さんも、ビルになっていく。
地下で魚屋が営業しているビルもあった。目立たないそここそがオーナーさんで、高齢なのにまだ仕事をしているのだ。
よく行く「紫月」は、この魚屋さんから仕入れていた。「赤坂の料亭は、あのおじさんの魚を使ってる。すごいのよー」と仁村和ちゃんは言う。アジの小骨を信じられないくらいきれいに取り去り、全く食感が違うのだ。
土地を高く売って赤坂を離れるのが一番楽だが、そうしなかった人たち。今、町会に残っているのは、赤坂に愛着があって、離れがたい人たちだ。
しかし、代替わりすれば莫大な相続税がかかる。ビルの老朽化も進んでいる。もし赤坂にこだわって住み続けたいなら、自分で膨大な借金を背負って建て替えるしかない。
赤坂では今、大規模な再開発が計画されている。魚屋さんは、築地市場が移転して遠くなってしまったので、店を閉めた。
徐々に幼馴染みが去っていくさみしさを、みな味わってきた。
町の将来のことを考える時、みんなの表情が少し曇る。
(2020年5月23日 FB投稿)
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