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アマノジャク爺 赤坂の話がしたい 14

 勝海舟にどうして惹かれるのだろう。語録『氷川清話』(講談社学術文庫)を読むと、晩年は自慢話も多く、皮肉屋だったようだ。
 明治26年、71歳の海舟翁は記者に語る。
 「人はよく方針々々というが方針を定めてどうするのだ。およそ天下の事は、あらかじめ測り知ることの出来ないものだ」「円いものや三角のものを捕えて、四角な箱に入れようとするのは、さてさて御苦労千万の事だ」
 明治政府の、もちろん自分より若い要人を斜めに見た後は、必ず過去の自慢話が来る。
 「幕府の軍艦が、函館へ脱走した時も、おれは棄てておけば、彼らは軍費に窮して、直ちに降参するだろうと言ったけれど、朝議はこれを聴かないで、これを征討したものだから、あの通り沢山の生命と費用とを、いたずらに消耗してしまった」
 「マー世間の方針々々という先生たちを見なさい。事が一たび予定の方針通りにいかないと、周章狼狽して、そのざまは見られてものではないヨ」
 こういうおじいさんのことを、昔は「因業爺(いんごうじじい)」と言った。近くにいたら嫌だろうなあという人だ。でも、時を隔てて僕と会うことはないから、そこは気にしない。

 海舟は、常に少数派だった。
 出世のためには朱子学を学ばなければならない時代に蘭学を学び、武士の世の中に近代海軍を作ろうとした。直言するので、偉い人にはにらまれた。もっとうまく立ち回る方法はたくさんあったはずなのに。海舟の性格を一言で言えば、「アマノジャク」というのが一番合うのではないか。
 そして、鳥羽伏見の戦いの後、偉い人たちが腰を抜かして右往左往する大混乱の中で、最後まで逃げ出さなかった。「誰もやらねぇなら、俺がやるしかねぇじゃねぇか」という態度で、江戸開城をなし遂げた。
 幕臣のこの時の大勢は、「日和見」だ。これは普通の人。目立たないように息をひそめた。
 どうにも収まらない「激派」は、上野の山に籠ったり、奥羽越の戦いを経て、五稜郭に籠ったり。激派となるのは、命を捨てる覚悟をすれば、簡単だ。
 どちらにも海舟は属さず、少数派を貫いている。敗戦の時、徹底抗戦を訴えた陸軍の一部(激派)に対する、鈴木貫太郎首相と立場は似ている。幕府瓦解から70年後、大日本帝国も瓦解し、滅びた。この時も、軍人にも庶民にも圧倒的に多かったのは、もちろん「日和見」。
 時流に合わせて鬼畜米英などと勇ましいことを言い(今の時代も、こういう人には要注意ですね)、風向きが変わってくると沈黙、戦後は一転教科書を黒塗りにし、東條の悪口を言い……。
 明治に入ってからの海舟は、淡々としている。明治8年には、官を辞する。この時53歳。江戸っ子の俺が、お江戸の息の根を止めた、という皮肉。もう、自分の役割は終えたと感じていたのではないだろうか。
 海舟はその後、息の根を止めた幕府の最後の将軍、徳川慶喜の世話を続けた。多くの人は、過去の人のことを気にもしなかった。ここでも海舟は少数派だ。
 明治31年3月2日というから、戊辰の戦いから30年後のことだ。かつての住まいである旧江戸城に向かった慶喜は、皇居で明治天皇に拝謁を果たした。これは、海舟が必ず遂げなければならない歴史の句読点だったのだろう。

 海舟は晩年、赤坂氷川町4番地に住んだ。慶喜の子を、勝家の養子に迎えた翌年、海舟は77歳で世を去った。
 終焉の地には後に氷川小学校が置かれ、校歌に「英傑海舟 住みにしところ」と歌われた。時は現代、今は高齢者福祉施設「サン・サン赤坂」が建つこの一角に2016年9月、勝海舟と坂本龍馬の師弟像が建立された。除幕に当たり、僕も寸志をお届けした。

 『氷川清話』にある、海舟の最後の語録を引く。
 「世間の人はややもすると、芳を千載に遺すとか、臭を万世に流すとかいって、それを出処進退の標準にするが、そんなけちな了見でなにが出来るものか。男児世に処する、ただ誠心誠意をもって現在に応ずるだけの事さ。
 あてにもならない後世の歴史が、狂といおうが、賊といおうが、そんな事は構うものか。要するに、処世の秘訣は、誠の一字だ」
 まさに天邪鬼な一生だった。

(2020年5月26日 FB投稿)

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