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腰砕け町会新聞 赤坂の話がしたい 15

 龍馬との師弟像が除幕された際、Facebookに僕はこんな文章を投稿している。新聞記事みたいな体裁で「赤坂中ノ町新聞」をしゃれてみたのだが、筆者に根性が欠けており、この超ミニコミは通巻1号で途絶え、赤坂に歴史を刻むには至らなかった。

(以下、この投稿とともにシェアした文章と写真)

海舟と龍馬の師弟像 ゆかりの赤坂に
【赤坂中ノ町新聞】2016年9月10日 通巻1号

 幕末、官軍との戦いを回避して江戸を戦火から救った勝海舟ゆかりの地、東京都港区赤坂に、海舟と弟子の坂本龍馬の師弟像が造られ、10日午前除幕された。
 師弟像が設置されたのは、赤坂6丁目の区立特別養護老人ホーム「サン・サン赤坂」敷地内で、海舟が1899(明治32)年に亡くなるまで住んでいた屋敷跡。海舟は座像で高さ約1.6メートル、立像の龍馬は約1.9メートル。
 七戸じゅん港区議、 長谷川雅春・赤坂ビル防犯協力会会長ら地元の有志約180人が見守る中、「師弟像を建てる会」の石渡光一名誉会長(ホッピービバレッジ代表取締役会長)らが綱を一斉に引いて除幕、大きな拍手がわいた。
 石渡さんは「海舟さんが住んだ同じ赤坂に住まわせていただき、こんなにありがたいことはない。感謝の気持ちから、建てる会を作りました。今日、魂が宿りました」と喜びを述べた。
 この後、海舟の玄孫(孫の孫)に当たるフリーライターの高山みな子さん(54)が記念講演。「赤坂の海舟宅はサロンのような役割を果たしていた。海舟の“思考のDNA”を、龍馬は全国に持って行って、話して、伝えてくれたんだと思っています」と述べた。
 式典の司会を務めたのは、千葉山いず美さん。赤坂に住んで6年、「大役を任され、緊張しました」と話していた。
 師弟像は六本木から赤坂TBSに向かう坂の上にあり、東の江戸湾を向いている。「建てる会」は今後、この通りを「海舟と龍馬の道」と命名する計画を明らかにした。【神戸金史記者】

◆海舟と赤坂◆
 勝海舟は幼名麟太郎、1823(文政6)年、江戸・本所亀沢町(現在の墨田区)に生まれ、45(弘化2)年に赤坂溜池に住んでいた蘭学者・永井青崖に入門。翌年、赤坂田町に転居して新婚生活を始め、蘭学塾を開設。赤坂元氷川に転居した年の翌60(万延元)年、咸臨丸で渡米した。
 松浦玲著「勝海舟」によると、赤坂の海舟宅を龍馬が訪ねたのは62(文久2)年の秋から冬にかけて。海舟は数えで40歳、「軍艦奉行竝」の要職にあり、土佐脱藩浪士の龍馬は28歳だった。攘夷思想を持っていた龍馬は、開国派の海舟を斬るため自宅を訪れたが、逆に海舟に心服して門人となったという。
 この後、龍馬は海舟の影響を受け、日本初の商社と言われる「亀山社中」を設立、薩長同盟の仲介者となる。
 後に海舟は、龍馬について「あれは、おれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着(おちつ)いてな、なんとなく冒しがたい威権があって、よい男だったよ」と話している(語録「氷川清話」)。
 海舟は68(明治元)年3月13日と14日、江戸城総攻撃を前に、官軍参謀の西郷隆盛と二度に渡って会談し、無血開城することで合意し、江戸の町を戦火から救った。
 72(明治5)年、本日師弟像が置かれた場所に転居、99(明治33)年に没するまで住んだ。この地には後に旧氷川小学校が置かれ、校歌に「英傑海舟 住みにしところ」と歌われた。

(2020年5月26日 FB投稿)

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