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「江戸しぐさ」と歴史修正主義

うさん臭い「江戸しぐさ」

10年以上前、「江戸しぐさ」の勉強会があると新聞のイベント欄に載っていたので、行ってみた。集まりは悪く、主宰者の女性がいただけで、2人でじっくり話し込んだ。

「江戸ことば」を学んでいたぼくは、「江戸の文化は面白いですよね」と言い、最初は盛り上がったのだが、女性の話しぶりからは、しっかり学問的に学んできた形跡は感じられなかった。聞いたことのない風俗がたくさん出てくるが、どれも初めて聞くものばかり。庶民の話だから、文献には残っていない、という……。
でも、ならばそればどんな根拠があって、この人は事実だったと言うのだろう?
「まとめた本がある」というけれど、その著者はどうしてそれを書けたの?
2時間ほどして別れたが、「もう来ることはないな」と思った。ぼくと「江戸しぐさ」なるものの接触はそれだけなのだが、うさん臭さは強く印象に残った。

今日の毎日新聞「ちょっと違和感」で松尾貴史さんが改めて「江戸しぐさ」に対して注意喚起していた。
https://mainichi.jp/articles/20200830/ddv/010/070/019000c

都合のいい歴史が好きな人たち

歴史には、見たいと思う姿を本当のように造形できてしまう怖さがある(あくまで、「それっぽく」でしかないが)。
それを利用して、人の心に意図的に忍び込んでくるのが、歴史修正主義。具体例を挙げれば、関東大震災での朝鮮人虐殺や南京事件が「なかった」と言う人たちだ。
事実であっては欲しくないから(そういう希望や結論が先にあってから)、それを補強してくれそうなミクロの事実(それ自体は本当)を提示し、大きな全体を否定しようとするのが特徴だ。

歴史修正主義が一番問題なのは、全体のほんの一部に過ぎないミクロと、ファクト(マクロ)が、対立する主張のように見えてしまうこと

知らない人は
「異論があるので、何が事実かはわかっていないのだな
「いろんな意見があるのなら、一方の意見に加担するのは避けよう」
と思ってしまう。

ファクトとフェイクを並立させることで、ファクトを見えにくくさせてしまう。それこそが、修正主義者の本当の狙い。「都合の悪いファクト」を貶める効果があるのだ。

南京事件、朝鮮人虐殺は、被害者の人数には異論があるものの、ファクト自体は全く否定できないもの。
中国が南京事件の犠牲は30万人と言うのは明らかにおかしいが、では1万人なら虐殺とは言わないのか、ということ。
朝鮮人虐殺否定論者は「6000人の大虐殺は、なかった!」と声高に訴えているが、では1000人では虐殺と言わないのか、ということ。
数字にこだわり、全体の存在を否定する。意図のためには、人の生き死にを愚弄してはばからない。だから、修正主義は一つ一つ、きちんと否定していかないといけない。

小池百合子さんの問題ある姿勢

関東大震災の起きた9月1日が近づいた。小池百合子都知事は今年も、朝鮮人犠牲者の追悼式典に、メッセージを送らない。石原慎太郎さんでも送っていたものを、小池さんになってから止めた。その時の理由は「震災の犠牲者全体を追悼しているので、個別には出さない」。
今まで出していたものを、出さないと変更するのは、明らかに政治的なメッセージだ。
自然災害の犠牲と、民族差別による発災後の虐殺を、あえていっしょくたにする姿は、これまで50年近く、「二度と起こさない」と誓って追悼を続けてきた人たちを否定するもので、逆に虐殺否定派は勢いづいた。

去年の9月1日、都内で開催された追悼式典を取材に行くと、会場のすぐ隣で否定派は集会を開き、トランジスタメガホンで「600人の虐殺はなかった!」「不逞朝鮮人がテロを起こし、日本人を虐殺したのが真相です」と声を上げていた=写真。
虐殺の目撃者がまだ生きていた1973年に、追悼式典は始まった。それが今、冒涜の騒音の中で行われている。ぼくは「これが日本人か」ととても悲しくなった。

虐殺否定派

小池都知事は、今年もメッセージを出さない理由を記者から問われ、「毎年送っていないから」と答えた。これはとてもずるい。小池さん自身は、「虐殺はなかった」とまでは発言していないが、歴史修正主義者と思われても仕方のない言動を取っている。

生死を愚弄するのは、本当に反道徳的だと強く思う。
松尾貴史さんのコラムは、『「傘かしげ」などの「江戸しぐさ」 うそで教育は反道徳」と見出しを付けていた。
コラムには、現代人が傘をかぶっているイラストに「思い切ってコレを使ってみるのはどうか。東京しぐさ」とあって、大笑いした。

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