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赤坂最後の夜に 赤坂の話がしたい 30

 引っ越しの荷物出しを終え、部屋ががらんとした。赤坂最後の晩は、「中ノ町・新四」町会内のホテルに泊まることにした。2階の部屋から、地下鉄赤坂駅の入り口と、TBS放送会館が見える。
 新聞記者になった時、先輩から「最初の赴任地は、第2の古里のようになるよ」と言われた。普賢岳災害で常駐した長崎県島原市は、その通り、古里のような土地となった。
 ひょんなことで放送局に転職し、福岡で暮らすことになった。たまたま住んだ箱崎という町で、自治会活動のお手伝いを買って出て、島原と同じように町の人を知った。
 群馬生まれの僕は、常によそ者だ。なのに、地元コミュニティに入りたいと僕が考えてしまうのには、理由がある。
 古里で、兄貴分の世代から祭りの太鼓を習ったのに、年下の誰にも教えることもなく、田舎を出てきてしまった。その祭りも、過疎化で消滅した。なんら地元にお返ししていない負い目のようなものが、僕の中にはある。
 赤坂最後の晩は、「中ノ町・新四」町会の寺腰前会長が、少人数の送別の宴を開いてくれた。僕は町会Tシャツを着て、ホテルから居酒屋「花丸」に行った。タカシ美容室のタカシさんと、偉丈夫のカズマも来た。
 「最後の晩だから、記念に写真を撮ろう!」
 タカシさんとカズマに挟まれて、写真を撮った。赤坂氷川神社の境内で、「その筋の人」にも見えるこの2人に、意を決して声をかけなければ、町会に入ることもなかった。

 翌朝、羽田空港から福岡行きの便に乗った。窓から見える首都圏の町並み。今後東京に住むことは、もうあるまい。
 思えば、コインランドリーでタカシさんのお母さんに会ったのがきっかけで、町会に入り、町の人を知った。
 山車の運行、神輿進行の交通整理、歳末火の用心の夜警、防災訓練、街歩きの会と、赤坂の町にどっぷりはまってきた。
 やまゆり園事件で植松聖被告に面会すべきかどうか、TBSラジオの鳥ちゃんと相談したのは、「花丸」でだった。縁起担ぎの僕は、台本をずっとそのカウンターの席で書き続けた。ラジオドキュメンタリー『SCRATCH 差別と平成』は、放送文化基金賞で日本一になったほか、早稲田ジャーナリズム大賞などで入賞を重ねた。
 それをテレビドキュメンタリー化した『イントレランスの時代』の台本は、主に「紫月」のカウンターで書き、常連みさきちゃんの助けも借りて仕上げ、ギャラクシー賞で奨励賞になった。最新リメーク版のラストでは、「紫月」ママの和ちゃんも、亡くなってしまった音声マンのまっちゃんも登場した。ラジオもテレビのどちらも、赤坂の街から生まれたドキュメンタリーだ。
 転勤が近づくと、居酒屋でも、定食屋でも、僕からお代を取ろうとしなくなった。タカシ美容室で散髪代を払おうとしても、「今日はいいの!」と言う。
 赤坂での4年3か月は、何物にも代えがたい時間だ。僕にとって東京・赤坂は、古里のような街になった。

 飛行機の機体は、筑後平野の上で大きく旋回した。雲間から、うねるように流れる筑後川が見えた。なんとも懐かしい光景に思えた。
 勢いで書き始めた「赤坂の話がしたい」シリーズも、30回に達した。赤坂氷川神社の境内で開かれたお花見の様子、歳末の防犯パトロールで食べた鍋の味、宮神輿をめぐる他町会との喧嘩、赤坂中学校PTAから頼まれ生徒の前で話した講演、日本一うまい「花丸」のサッポロ一番のこと、まだまだ書ける話はあるのだが、もうおしまいにしよう。

 僕の赤坂ライフは、こんな感じだった。

(2020年6月26日 FB投稿)

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