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金左衛門と改名しました(noteで)

やってきた外国人が、口をそろえて驚きを隠せない国。

「不機嫌でむっつりした人には、ひとつとて出会わなかった」
「店頭や店内で、はだかのキューピッドが、これまた裸に近い頑丈そうな父親の胸にだかれているのを見かけるが、これはごくありふれた光景である」

それは、幕末の日本です。

「世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない」
「いい大人たちが、小さな子供に交じって、凧を揚げたり独楽を廻したり羽をついたりするのは、まことに異様な光景」
「英国の母親がおどしたりすかしたりして、子供をいやいや服従させる技術や脅し方は知られていないようだ」

日本列島の近世社会は、今から見れば理不尽な、封建社会でした。
しかし、そこに生きている、よく笑う陽気な人々の姿を、幕末に訪れた異邦人は、驚きを持って記しています。

まるで……
今の日本とは正反対のように見えませんか。

幕末に来日した外国人が書き残した記録をもとに、ベストセラー『逝きし世の面影』を著した渡辺京二さんは、執筆目的をこう書いています

「私たちはすでに滅びた、いや私たち自身が滅ぼしたひとつの文明を、彼らの目を通して復元していくことにある」

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渡辺京二さんは、書きます。

われわれはまだ、近代以前の文明はただ変貌しただけで、おなじ日本という文明が時代の装いを替えて今日も続いていると信じているのではなかろうか。つまりすべては、日本文化という持続する実体の変容の過程にすぎないと、おめでたくも錯覚して来たのではあるまいか。
実は、一回かぎりの有機的な個性としての文明が滅んだのだった。

さて、文明が滅んだころのお話をしようと思います。

私の実家では、ずっと当主は「金左衛門」と名乗ってきました。
徳川幕府から明治新政府に替わった当時、金左衛門の長男、篤太郎(とくたろう)はまだ5歳でした。篤太郎さんは、明治になって成人しても、さすがに「金左衛門」と襲名はせず、幼名のまま過ごしました。

初めて金左衛門を名乗らない当主となった、篤太郎さん。
ところが、長男を授かると「金治(かねはる)」と名付けたのです。「新時代・明治に生きる金左衛門」という意味を込めたのではないか、と私は考えています。
篤太郎おじいさんは、私にとって「祖父の祖父」に当たります。

以来、実家では、長男が生まれると「金」の字をつけるようになりました(次男からは付きません)。
こんな名前を持った男の子が、学校でどんな目に遭うか、みなさん想像できると思います。私自身、名前であまりよい思い出はありません。

大学で日本史学を学んでいるころ、篤太郎おじいさんが1887年に書いた日記を読んで、私は衝撃を受けます。
そこには、「御公儀の瓦解以降、我が家衰え」と書いてありました。公儀とは、幕府のこと。篤太郎さんは日記で、維新という言葉を一切使っていませんでした。
実家のある山あいの村は、江戸幕府の直轄地でした。金左衛門さん、篤太郎さんは、明治新政府から「賊軍」と扱われた人びとだったのです。

瓦解からずっと後に、「賊軍」と戦った「官軍」の戦没者を祀る神社が新設されます。後の靖国神社です。賊軍の側から、靖国はどう見えていたでしょう。
150年前からの新しい文明だけを見て、日本を語る人たちがいます。時々絡まれます。
しかし、江戸以前の文明の方がずっと長く、並べてみれば明治以降は、伝統を背景に持たない「新しい文明」に私には思えます。
「ほほ笑みの国」
「世界で、子供がもっとも幸せそうな国」
伝統的な日本への愛着を捨てられない私は、絡んでくる人たちよりずっと保守的な日本人ではないかと思うのです。

小学校も中学校も、過疎で廃校となってしまいました。ふるさとを遠く離れていると、あの村で育った世代は私で最後なのだな、長い歴史も僕で終わるのだな、という気持ちになります。
そこで、父親を差し置いて、noteでは金左衛門と名乗ることにしました。ただし、コロナ禍の現状を鑑み、襲名披露は開きません。

字(あざな)は金左衛門、諱(忌み名)は史重。
実は昔から考えてきたことなのですが、リアルでも改名するかどうか。

それは、まだ決めていません。

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