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〈雑記〉赤い月を見て願うことはないが、黄色い月を見て願うことはある。

※一部にお下品な話題が登場します。
 ご了承いただける方のみお読みください。


 はい。こんにちは。
 秋が深まり山は赤や黄色に染まり、先日の月食では月が赤く染まりました。

 長袖の部屋着の手首を冷たく震わせる夜風を感じながら、僕は赤い月を見ました。スマートフォンのカメラ越しに何度かと、肉眼で──いや、眼鏡越しに何度か月を見ました。

 赤い月を見た僕にはツキは無いようで、冷えた空気に尿意を感じ、トイレで赤い尿を排出しました。赤い尿を……赤い!?!?
 尿が赤かったのです。先程見た赤い月の色素が、瞳から網膜に吸収され、体内を通って膀胱に到達したのでしょうか。あるいは、赤い月を見た僕は何か別の化物に変化しようとしているのでしょうか。

 いや、違いますよね。
 明らかに体内のどこかの異常です。

 肉眼的血尿ですからね。膀胱、腎臓、尿道、前立腺……まさか、もしや、あの、のたうち回るほど痛いと言われている結石か。勘弁してくれよ──

 翌日すぐに泌尿器科のクリニックに行き、尿検査をして、僕の尿は細胞診と培養に出されました。翌週となる今日、検査結果を聞くのと予約制のエコー検査を実施。
 診断としては、がん細胞は認められず、膀胱や腎臓に石はなく、前立腺の肥大は認められませんでした。そんなわけで、細菌とかそんなやつからの尿道炎ということで抗生剤を貰いました。

 は? 特にオチはないです。
 僕が文章にしたクリニック初診から診断までの間に一週間の日にちがありましたが、情けないことに怖くて怖くて何もする気が起きませんでした。だって、赤い月を見たら赤い尿が出るんですよ!? 一大事じゃないですか。狼的に。

 さて、なぜ僕は可能性に恐怖するのか──いや正確に言えば、可能性から想像し得る確定していない悪い妄想ばかりをして、想像によって恐怖ばかり感じるのでしょうか。

 あ、なぜと言われれば本能ですよね。
 人間は想像をすることによって危険を想定し回避行動が取れる。つまり、人間の想像力は生き残るための力の一つなんでしょうね。

 危機回避、生存能力としての想像力をどこにどう使うのか。
 ただ恐怖するのか、飛躍した妄想で愉悦に浸るのか、想像物を組み換え自身の物語の糧とするか。


 ここ数年の僕は小説を書くことによって、消費してもらいたいはずだったのですが、どうもここのところ小説を書くに至らない。

 ああ、こうやって小説を書く人って脱落していって、長く長く続けることが価値の割合として大きくなっちゃうんだなあ、と思っています。まあ、もちろん僕が小説を書かなくても誰かが書いてるわけだし、今の僕には「逸脱したなにか」みたいな感覚が欠如しています。
 こういう時は長い小説が書けません。
 とても馬鹿らしくなってしまって。非効率的なことが馬鹿らしくなってしまって。

 ただ、そしてまた、馬鹿らしいことをしたくなる時が来ることもあるわけで。そしたらその時に。
 明日できることは今日しない。


 ということで、お薬を飲んで空を見上げて、月と同じような色の尿になることを黄色く輝く月に祈ることにします。

 は? おしまい、またね。


僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。