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短編小説 「掌-てのひら-」

小さな白い

「どこにも行かないから。ここにいるから」と、女は言った。そんなこと頼んでいない。

 どこにでも行けばいいのに。何にとらわれているのか、同じ場所でいつも女は佇んでいる。外は雨で部屋の窓から見える位置にずっと立ちつくしている女はびしょぬれになっている。平坦な感情でそれを見つめながら、酒を飲んだ。ふと、女のほうに目をやると、うれしそうに手を振っていた。雨に濡れた髪や顔はもとからあまり美しくない女をさらに醜悪なものにし、笑い顔に吐き気がする。

 いつだってそうだ。誰かが見ているんだ。無関心を装いながら、俺を監視しているんだ。うんざりだ。

 床に転がっている本には、世の中の人間がみんな、『誰かのために生きて、誰かに生かされている』なんて書いてあった。嘘ばっかりだ。くだらない。誰かのために生きるという錯覚がないと生きていけない奴らばかりだ。少なくとも俺は誰のためにも生きていない。俺は俺のために存在し、酒を呑むために生きている。そうでなければなぜこんなに孤独なのだ。

 唯一、孤独を感じないときは、酒を気を失うまで呑み、だらしなく吐き、そして自分の身体から発する悲鳴を聞いているときだ。少なくとも俺の精神と身体はつながっていると感じられる。毎日、酒を買うために仕事をし、酒を飲むために飯を食う。

 もう少しまともだったころは、この部屋に誰かがいつもいて、俺のために暖かい飯を用意してくれたり、酒にいれる氷を作っていてくれたりしていた。寒ければいつも毛布があり、だらしなく気を失っても、朝には毛布にくるまって眠っている俺がいた。あいつは、倒れた俺に毛布を掛けるのが好きだったんだろう。そうかそれなら、少なくともあのときは『誰かのために存在していた』という事になる。

 ほんの一瞬でも、『誰かのため』に存在していた自分にうれしくなり、また酒を飲み、焼けるような痛みと共にトイレで吐き、やっと眠れそうだと思った。

 あの女はまだあそこに立っているのだろうか。窓の外を見ると、遠慮がちにそっと手を開いて小さく振っていた。女の手は何故かやたら白くて、小さくて、とても悲しそうに見えた。


私の港

 会社を出ると、冷たい北風が私を出迎えてくれた。

「うわぁ。寒い」
 と、かわいい声を出した前を歩く女の子が男の子に寄り添って手をつないで歩いている。

 あんなふうに、手をつないで肩を寄せて歩いたのはいつだったか。少なくとも思い出せないくらい昔だということは確かだ。きっと、あの子らは今の私より寒さを感じていないはずだ。愛しい人のそばにいるだけで、なんとなく心があったかくなって、どんなに冷たい風が吹いていようとも彼の体温を感じられれば、それで十分あたたかいのだ。

 自分は……といえば、フリースの手袋に分厚いマフラー姿。恋をして手をつなぎあっていたあの時代とはかけ離れてしまった姿だ。
 一人苦笑いを浮かべながら、いつもの帰り道を歩く。胸のあたりにできはじめたもやもやしたものに気が付かないフリをして。

『アノヒトとは、手をつないで歩くことなんて一度もなかったな』

 夫と別れてから、もう二年になる。

 私たち夫婦は、はじめからなにか歯車のかみ合わない状態で一緒に暮らしていた。お互いにそのことが解っていても、『家庭』という場所を作り上げることだけが、自分たちに課せられた義務のように感じて、いい夫でありいい妻であろうとしてきた。『家庭』というテリトリーを必死に築き上げてきたのだ。土台を間違ったまま積み重ねた積み木でなにかを作ろうとしても、うまくいくはずがない。結局、五年間で家庭という積み木は崩壊した。

 後悔していないといえば嘘になる。だが、寒々しいリビングや、ちぐはぐな夕食の団らんなどを思い返すと、これで良かったんだとも思える。私たちはすっかり冷え切って、自らの体を温める術さえ解らなくなっていたのだ。

 それでも私は彼に比べれば幸せだと思える。彼のその後は全く解らない。どこかで分かち合える人を見つけて、冷えた体を温めてもらえていれば良いのだがとたまに考える。

 どこかで夕食の支度をしている匂いがする。すっかり日が落ちた冬の夕方、家々の窓にささやかな明かりが灯る。まるで灯台のようだ。海に出ていた船が帰航するように、家の明かりを目指している仕事帰りの人たち。

 そして私も、私の港が待っている場所に急ぎ足で歩く。そう、あの角を曲がれば見えてくる。

「おかあさん!」

 小さな体から、喜びの感情があふれ出ている。私だけを待っていてくれるこの幼い港のためになら、私は何だってできるだろう。保育園を後に、フリースの手袋を脱いで手をつないで歩く。北風に背中を押されたけど、さっきほど寒くない。こんなに冷たい風が吹いているのに、この子の手のひらは少し汗ばんでいる。もう一度ぎゅっと握り、夕食は何にしようと考え始めた。
 

たいせつなひと

「誕生日おめでとう。ほら、おまえの好きな店のケーキ買ってきたぜ」
 彼女はうれしそうに俺を見つめた。
「本当は、部屋なんかじゃなくて、どこかのレストランでお祝いしてあげたかったんだけどな……ごめん」
『いいの、ここのほうが落ち着くわ』
「そういってもらえると助かる。ありがとう。さあ、ろうそくに火をつけるから吹き消して」
 彼女は、小さな唇をすぼめふっと息を吹きかけた。肺活量があまりないのかろうそくの炎はすこし揺らぐだけで、なかなか消えない。仕方ないので俺が手伝ってやった。
「おめでとう! ……これ、おまえに似合うと思って……」
『すてき。銀クロスのネックレスね』
「つけてやるよ」
 俺は彼女の柔らかい髪をかき上げ、華奢な首にネックレスを着けた。
「うん。似合う。かわいいよ」
『ありがとう。うれしい』
「2度目の誕生日か。なんか信じられないな」
『どうして?』
「おまえと知り合う前の時間が信じられないんだ」
『……』
「出会ったときも、なんか運命的だったしな。」
『そうだったっけ?』
「そうさ。あの日、大学の構内でおまえのところだけがなんかスポットライトでも浴びてるように光って見えたんだよ」
『嘘』
「俺はそのライトに向かってまっすぐあるいた。何かの啓示があったように……そしてそこにおまえがいたんだ」
『そうだったの』
「たぶん、俺たちがこうして一緒にいることは運命なんだよ」
『運命?』
「俺は一目でおまえの魂が孤独に叫んでいるって事が解った。俺も同じだったから……。そして、おまえを救えるのは俺しかいないってことも」
『……』
「はじめはおまえは俺を拒絶したよな。でも俺はそんなおまえがますます愛しく感じたし、心を開くときがいつか絶対来ると信じていたんだ」
 彼女は、少し沈黙した。あのときのことを思い返しているんだろう。
「なあ、俺たち最高の恋人同士だよな。おまえもはじめは俺のことをいやがっていたけど、長い時間をかけて俺が口説き落としたおかげで、お互いに分かり合えてるし、お互い無しではもう生きていけないよな」
『……そうね』
「ずっとこのまま一緒にいような。ずっと。ずっとな。もう絶対離さないからな」

 そして俺は、半ば白骨化した彼女のてのひらにキスをした。二人の永遠を願いながら――。


お手をどうぞ

「お手!」

 犬という生き物は忠実なので、飼い主の命令にはたいがいに従うはず。だが、何度も何度も教えているのに、我が家のバカ犬ときたら「お手」の一つもまともにできやしない。いや、お手どころか、『お座り』だって『伏せ』だって何にもできない。だからといって、虐待しているわけではない。なんにもできなくても、こっちを見つめてしっぽを振る仕草はかわいいし、一緒に暮らして愛らしい姿を見せてくれるだけで、十分和んでいる。

 だけど、やはり散歩に出たときよその犬が、きちんと『座れ』『待て』という命令を聞いているのを見ると、不安になる。もしかしたらこの子、どっかに障害があるのかしら。たとえば脳に欠陥があって、飼い主の言うことが理解できないとか…と、そんなふうに思ってしまうのだ。

 あまりに心配なので、ペットショップに出かけたときに店員さんに聞いてみることにした。

「あのう。ウチの犬、何にもできないんですけど……」と。するとそれじゃ私が試してみましょうとばかり、犬の前に立ち少し微笑みながら右手を差し出しこういった。

「お手」
「!!」

 なんということだろう! バカ犬ときたら……バカ犬ときたら……ちゃんと『お手』ができるじゃないか! 

「できますね。じゃあ飼い主さんもやってみてください」
「はい」

 きっと、この犬は今日、脳みその回路がいきなりつながって、お手ができるようになったのかもしれない。私がこの右手を差し出せばあのかわいい前足をちょこんと載せてくれるはずだ。こんな些細なことでドキドキするなんてどうかしてるような気もするが、少し緊張しながらそっと言ってみた。

「お手」
「……」
「お手」
「……」
「お手え!! お手だってば! おてだぁぁぁぁ!」
「ちょ、ちょっと落ち着いて、おびえてますよ!」
「す、すいません。だってこいつ私のこと無視するんです」
「うーん。どうしてなんでしょうね。もしかしたら飼い主さんをボスと認識していないのかも……」
「ええっ。もう三年も一緒に暮らしてるのに? そんなあ……」

 犬という生き物は、群れで行動する。群れの中でもルールがあり。ルールに従えない者、知らない者は自然界では生きてはいけない。自由奔放のようにだが、実は自然界の厳しいルールに従い生きている。秩序の中の自由なのだ。そんなわけで、犬はリーダーであるボスを必要とし、そのボスの方針をルールとして生活するのである。

 で、我が家の犬が命令を無視しているというのは、この犬が私に「リーダーの資格無し」と判断したからではないかということなのだ。ということは、私は犬の飼い主である資格を飼い犬に問われているわけなのだ。なんということだ。

 ペットショップの店員に、「犬との暮らし」という本を薦められた。犬とどう関わって暮らせばよいかということが書いてある本である。そんな本、犬を飼い始めるビギナーが読む本じゃないのか。私はもうすでにこいつと三年も暮らしているというのに……。

 本を買ってすごすごと家に帰る。家に入って、ソファに座り、さっそく本を開いてみたが、すでに知っているような事しか書いていなかった。ため息とともに犬のほうを見る。

「ねえ。どうして言うこと聞いてくれないのよう」

 ぽつりと漏らした。犬は自分が呼ばれたと思ったのだろう、私の足下にやってきて、しっぽを振りながら私を見つめている。

「ねえ、お手」

 どうせまた無視されるんだろうなと思いつつ、右手をそっと出してみた。案の定、犬はてのひらの中になにかおいしい物でも置いてあるのかとのぞき込んだが、そのままなにもせず私を見ている。

「まあ、いいか。お手ができなくても、かわいいもんね」
 私は持っている本を投げ出して、犬の頭をなでてやった。

『バカだな。オレはあんたの困った顔を見るのが好きなんだよ』

「えっ?」
 なにか聞こえたような気がして、辺りを見回す。もちろん誰もいるはずがない。空耳? それともこの犬がしゃべった? ……そんなわけないか。犬は相変わらず私を見つめてしっぽを振っている。まあいいか。何にもできなくても。この子のおかげで私はずいぶん癒されてるし助けられてる。この子が存在するだけでありがたいと思わなきゃね。

 リーダーにはなれないかもしれないけどパートナーにはなれるかもしれない。

『そうだな。あんたみたいな情けない女の面倒見るには骨が折れるけどね』

 こっちをみて犬が笑ったような気がした。まさかね。


掌(てのひら)

 いくつものてのひらを見てきた。それが仕事だから。
 手相を読み、悩んでいる人に道筋を与えるのが私の役目。仕事としては、変わり種だけど、少しだけでも人の役に立っているような気がして満足している。
 それでもこんなに寒い冬の夜は、街角に座っているのがたまらなくなってくる。いくらビルの影に寄り添って風を避けていても、足下から冷気があがってきて、背中まですっかり凍り付きそうになる。
 師走の町は、無理矢理に飾り付けたおもちゃみたいで、街の中にいると落ち着かない気分になってくる。こんな時期だから私の商売はもうかるのだろうけど。

 十二月も半ばのある日のこと。最初の客は男性であった。彼は、明らかに疲れ果ててボロボロで、生気のない顔をしていた。瞳もどんよりしていて少し焦点が合っていない。酒焼けだろうか、顔が赤黒い。会社の同僚らしき人物に連れられて、嫌々ながら手を差し出していた。私は彼の手相は見るまでもないと思っていた。彼は、世の中が嫌になって逃避し続けている。だが、まだ世界のどこかに自分を救ってくれる手があるのではないかと、探し求めている。
 「手相を見る」とはいうが、私は、「人間を見ている」のである。何人もの人間に接して、いろんな人生を知り、そして推理力を高めていく。私の場合、手相はあくまでも添え物でしかない。占い師は、対象の核の部分までは踏み込まない。たとえ解っていてもだ。最後は本人が決めるしかないのだ。私は、迷子になっている男性に、道路標識を見せてやるだけだ。


「酒を控え、そして早急に引っ越しをしたほうがいい」
 彼が具体的に何に捕らわれているのかは、本人があまり話したがらないので理解できなかったのだが、とにかく彼は一つの場所によどんでいては駄目だと判断した。酒を控えれば健康を手に入れ、運気はあがるはず。引っ越しをするというのは、古いガラクタを処分するいい機会になるであろう。そうすれば、過去のいざこざややっかいごとから多少なりとも縁が切れるであろう。
 彼はなんとなく釈然としない顔をしていたが、素直に「はい」と返事をし、帰っていった。本当に彼に酒を控えることができるか、引っ越しをすることができるかは私には解らない。とにかく私のできることは、標識を見せてやるだけ。それだけなのだ。

 その後に来たのが、仕事帰りの女性であった。さっきの男性とは対照的に、彼女は少し疲れているかもしれないが、目に力があり、生き生きとして見えた。
「あの……恥ずかしいんですけど、結婚運とかみてもらいたいんです」
 聞くと、彼女は離婚経験者で、小さな息子と二人暮らしだという。なるほど、少し疲れているのはそのせいか。冬になると人は、ぬくもりが欲しくなる。いつもなら、子供と二人の生活のほうが気楽と思っていても、寒い季節に寄り添う大人が恋しくなるものだ。
 彼女のように聡明そうで、しっかりと自分の考えを持って生きている女性だったら、いずれ誰かいい人が現れるに違いない。手相もそう言っている。ただ、今は子供も小さいので忍耐が必要なのかもしれないと判断し、私は「今ではないけど近い将来に、なにか出会いがあるかもしれません」と、答えた。非常に曖昧だが、仕方ない。

 人というのは不思議なもので、願っていれば自分で運気を呼び込んでくるエネルギーを発するものなのだ。たとえば、恋人が欲しいと願って生活していれば、どうすれば恋人ができるようになるかと考えるようになる。そうすると、自然に自分自身で工夫したり、今まで見なかった部分を見てみたり、行かなかった場所に行ってみたりするものなのである。そうすれば出会いのチャンスも増えるし、いままで見過ごしていた異性のこともよく見えるようになる。本気で願えば、たいていにおいて黙っていても行動するものなのだ。
 そんなことはたぶん誰しも解っていることなのだろう。ただ、アテもなく行動するのは怖いので私たち占い師の元にやってくるのだ。誰かに背中を押してもらいたくて。

 まだ夜も早い時間なので、それほど客も多くない。道行く人も酔っぱらいは少なく、仕事帰りで帰宅する人たちばかりだ。人並みを見つめていると、歩いている人間の生気というかオーラを感じるときがある。強いオーラを発していると遠くからでも、光り輝いて見える。そういう人間は、他人への影響力も強いし、魅力的な人間である要素を持っていると言える。少し前までは、そういうオーラを持った人間がよく歩いていたのだが、最近はなかなか見かけなくなった。この時勢でみんな疲れているのだろう。
 ふっと、何かの気配がして、前方を見やるとまだ遠くの方にまばゆいばかりのオーラを持った人物が近づいてくる。ここのところ見かけなかった、美しく、力強いオーラだ。誰しもを魅了させるという表現がふさわしい光り方。きっと、オーラの持ち主はエネルギーがあふれた人間に違いない。
 そんなことを思いながら、近づいてくるオーラの持ち主を楽しみにしていた。

 占い師とて人の子。間違えることだって、失敗することだってある。

 私は今まで長いことこの仕事をやってきて、はじめての事象に出くわしたのだった。オーラの持ち主は、『犬』だったのだ。若い女性に連れられた細面で長毛の大きな犬。確かに気高く美しい姿である……であるのだが、この犬から発するオーラが人間のものより強いなんて信じられない。だいたい、動物が人間より強いオーラを持つなんてことは聞いたことがない。だんだん近くにやってくる犬からのエネルギー ですごい威圧感を覚える。この犬は本当に犬なのだろうか? と疑いたくなるくらいの強さだ。飼い主は気が付いているのだろうか? 
 犬を連れた女性に声をかけようとしたそのとき、犬が私の方を見た。いや『見た』というより『睨まれた』という方が正しいかもしれない。鋭い眼光。文字通り目線という線が一直線に私に伸びているようだ。犬からの波動を無防備な状態で受け止めてしまった私は、声をかけるどころか、動くことすらできなかった。まるで犬から『よけいなことをするなよ』と、言われたような気分だ。呆然としたまま犬と女性は私のそばを通り過ぎるのを見つめていた。犬はあの女性のことをとても愛していて、守っているのだろう。彼女はきっとあの犬の特殊さには気が付いていないだろう。いや、犬が気が付かせないようにしているのかもしれない。彼女を守るために。
 不思議なことだが、私は不思議なことを見聞きしたり体験するのが商売のようなものなのだから、受け入れる柔軟さは持ち合わせている。犬が人なみの知能を持っていたとしても、特殊な能力があったとしても、実際目の当たりにして、不思議だとは思うがそれはあり得ることなのだと納得できるくらいの懐の広さは持っている。
 もし、もう一度あの犬に出会えるのなら、手相を見てみたい……と思った。果たして犬に手相などというものが存在するのかさえ、解らないのだが。

 何人かの冷やかし半分な酔っぱらいのお父さんたちや、悩める女性などを相手にし、そろそろ終電の時刻なので、店じまいすることにした。片づけをはじめていると、急に後ろに気配を感じた。
「!」
 私のすぐ後ろに、二十歳くらいから三十代前半と思われる青年が立っていた。こんなに近くに来るまで何故気配を感じなかったのだろう? それに、なにかとても嫌な空気が彼の周りを取り巻いているように感じる。
「……なにか?」
 青年は、無邪気そうな笑顔を浮かべ、はきはきとした声でこういった。
「おしまいなの? 俺と彼女のこと占ってもらおうかと思ったのに……」
 さわやかそうなふつうの青年に見える。だが、なにかどこかが違う。青年の目を見たとたん、ものすごい恐怖が背中を走った。私の心の深くから、警報音が聞こえてくる。何のことない会話だというのに、心臓が波打つ。
「ごめんなさいね。いつもこの時間にはおしまいにしてるの。またいらしてください」
 何事もなかったかのように、言えただろうか。声は震えていなかっただろうか?
「そうか。残念。じゃあまた来るよ。友達に聞いてきたんだ。美人占い師がここにいるって」
「そ、そう? すっかりおばさんでがっかりしたでしょ?」
 私の笑い顔は引きつっていないか?
「そんなことないよ。俺の タイプ  かも……」
 なぜだか、彼は言葉を句切ってしゃべった。何かを私に伝えようとしているのか? だが、私の好奇心とは裏腹に、足は少しずつ彼から離れようとしている。
「あら、ありがとう。それじゃ、申し訳ないけどまた来てくださいね」
「しかたないね。明日また来てみるよ。じゃ、さよなら」
 私は、ぺこりと頭を下げて、足早に駅の方に歩き出した。
 足ががくがくする。こんな気分になったのは、ずいぶんと久しぶりだ。なるべく明るい道を選んで、後ろを気にしながら歩く。つけられているという気配は無い。駅が見えてきた頃、 今まで知らず知らずに、つめていた息をそっと吐いた。

「ふぅ……」

 息を整え、周りに人がいることを確認し、やっと肩の力が抜けてきた。改札口近くで、携帯電話を取り出し、短縮メモリーに入っているナンバーにかける。

「もしもし?」
「おう。俺だ。どうした?」
 いつもの明るい声に、今までの緊張がゆるみ、ほっとする。
「ごめん。遅くに。あのね……」
「ん? なんかあったか?」
「えと、さっきなんだけど半年前と同じ事が……」
「何?」
 彼の声が急に固くなる。半年前と同じ……それは、彼にとっても重大な意味を持つ。

 私は半年前、幼女誘拐殺人の疑いのある人物の手相を見た。正確にはそういう疑いがあるということすら解らなかったのだが。ふらりと現れた、気の弱そうな青年がら発せられるものすごい恐怖に私はおののき、知り合いの刑事である電話の相手に相談したのだった。ふつうなら一笑に付されて終わるところなのだが、昔からの知り合いで私のことをよく知っている人間だったので、すぐに対処してくれた。そして、ちょっとごたごたはあったものの、犯人逮捕――となったのである。

「それで今、どこにいる? 大丈夫か? なにもないか?」
 早口でまくし立てる彼を遮る。
「大丈夫。何でもない。いま、駅だから」
「迎えに行こうか? いや、迎えをやる。その方が早いし安心だ」
「平気よ。大げさにはしないで。明日の朝、そちらの署に出向いて詳しく話します」
「本当に大丈夫なんだな? 俺、今からでも話を聞きに行ってもいいぞ」
「いいのよ。たいしたことは何もないのよ。ただ明日、少し人をだしてもらう事になるかもしれないわ」
「……そうか。そういう事例か」
「たぶんね。でも間違いだったらごめんなさいね」
「いや、おまえのその……なんというか……能力というか、第六感というか……は、かなり信頼できるから」
「褒められているのかしら?」
「褒めてるさ。尊敬してる」
「らしくないことを。でも、ありがとう」
 ホームまで歩きながらの会話は、私をリラックスさせるには十分であった。
「電車が来たわ。それじゃ、明日」
「おう。気をつけろ」
「わかった。お休み」

 電話を切り、ホームに滑り込んできたオレンジ色の電車に乗り込む。車両はかなり混んでいて、冬だというのに人いきれで暑いくらいだ。なんとか自分のポジションを確保し、ドアが閉まるのを何気なく見ていたら、階段からさっきの彼が上がってくる姿が見えた。彼は、目を上げると私に気が付いたようで、唇の端に薄く笑いを浮かべた。その後、なにか唇が動いていたように見えたが、電車が発車したので確認できなかった。
 私は、もう一度の恐怖感にめまいをおこしながら、コートのポケットにある携帯電話を握りしめていた。0番の短縮をすぐにでも押せるように。
 再び彼を見たことで確信したのだ。――彼は、人を殺していると。

 明日は長い一日になりそうだ。

 私はじっとりと汗ばんだ自分のてのひらを眺めてみた。
 とりあえず、明日死ぬ、ということはないだろう。


 

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