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【短編小説】すべては忘却の彼方

 俺は幼いころから物覚えが悪い。いや、悪いというより、記憶力が無い。

 物心ついたとき、母は迷子対策として俺に一生懸命自宅の住所や電話番号を覚え込ませようとしていたが、いつまでたってもさっぱり覚えることができず、業を煮やした母は、終いには下着の裏や靴下にまで住所と名前を書くようになってしまった。これで、いつどこで何があっても安心である。
 そんな母の万全な対策とは裏腹に、迷子になることも、誘拐されることもなく子供時代は終了してしまった。

 何年も自分と付き合っていればさすがにすこし賢くなって、住所や電話番号はメモを見れば全てが解るということに気がついた。記憶力が全くないわけではない。何度も繰り返せば、なんとか覚えることはできる。
 だが、問題は人の名前が覚えられないことだ。円滑な社会生活を送るには、やはりきちんと相手の名前くらい覚えていないと困ったことになる。初対面や一度二度会っただけの人物ならともかく、毎日顔を見ている担任の名前や、隣の席に座っているクラスメートの名前が全く覚えられないのには、ほとほとまいってしまう。
 一年間同じクラスで勉強した仲間であるというのに、気軽に名前で呼びかけられないのだ。いつも、「あのー」とか「おい」とかで、呼び止めている。遠くにいる人を振り向かせることはできない。いつもすすすっとターゲットの近くに走り寄り、肩を叩いて「おい」とするのだ。中学校のころは、この振る舞いが話題となり『忍者』というあだ名をもらった。いつもいつの間にか人の背後に回っているからである。好きな女の子にも声がかけられない。
 しかし不思議だ。なぜ好きな相手なのに、名前が覚えられないのだ? 誰かが他人の名前を覚えられないのは、その人に興味がないからであると言っていた。それじゃ俺は、自分以外には誰にも興味がないということなのか?

 記憶力に問題があるのだが、学校の成績はさほど悪くはなかった。記憶の欠如はあるものの、国語や数学など、流れに沿って考えていけるものは、連想ゲームのように推理したりしてなんとか乗り切ってきた。そのほかの科目は貧相な点数しかとれなかったが、普段の授業態度を良くして、教師に好印象を与えて上手い具合にわたってきた。人は大きな欠点がある場合でも努力すればなんとかなるのだと、妙な自信も培っていた。周囲の人たちに、覚えていないことを気がつかせないように、振る舞うこともできるようになった。
 もちろん、医者にも診せた。この記憶力のなさは、尋常ではない。しかし、医者の診断では、どこにも問題は見つからないという。綿密な検査を受けても、精神科の治療を受けても、結局は健康体であるというお墨付きをもらうだけなのだ。
 脳に未知の障害があるかもしれないとは言われたが、それが何かは判明できない。医学で判明できないということは病名はつけられないし、症状でもない。
 試行錯誤を繰り返し、結局、原因を突き止めるのをやめてしまった。

 普通の人が簡単にできることを俺は何倍もの努力をして手に入れてきた。就職するときも、なるべく人と会わない職業を選び、小さなデザイン事務所にデザイナーとして就職し、淡々と仕事をこなしている。社外の人に会うときは、無口な芸術屋の皮をかぶり、必ず営業の人間と一緒に行動し、人の名前が覚えられないことを悟られないようにしてきた。
 記憶に刻まれないたくさんの名前達。俺の脳には刻まれていないが、そのかわりいつも肌身離さず持ち歩いているスマホが全てを記憶している。会った人物について、その日時、特徴、そのときあったことなど細かくびっしりメモしてある。突発的な出会いには弱いが、前もって予定が解っていれば、このメモを見れば予習ができる。スマホは俺には無くてはならないもの。こいつが無ければ、俺は自分の会社の場所さえ解らなくなってしまう。もちろん、突発的な事故に備えて、いつもバックアップはとってある。俺は記憶力はないが、ぬかりもない男なのだ。

 そのうち技術が発展し、脳の内部に記憶装置みたいなものを埋め込めるようになる時が来るだろう。その日を心待ちにして過ごせばいい。それまではこまめな努力と根性で乗り切っていくのだ。少しの希望も捨ててはならない。俺は記憶力がなくても前向きな性格なのだ。

 なんとか躓きながらも、よろよろと歩いてきた。これからも、無難に歩いていくだろうと思っていた。

 思惑通りに行かないのがまた人生というものなのだろう。

 俺は仕事がうまくいかずに、むしゃくしゃして1人で飲みに行った。たまたま居合わせた女と意気投合し、そのまま彼女が宿泊しているというホテルになだれ込んだ。特定の女はいなくても、たまにこうやって神様が粋な計らいをしてくれる。何度かこんな行きずりの関係を楽しんでいた。恋人と呼べる存在が欲しくないと言えば嘘になる。だが、俺のこの記憶力を理解してくれる相手は、簡単には見つかるものではない。過去の痛い経験から、充分学習している。一度きりの関係になるであろう相手は、慎重に選んだ。もちろん自分の身分や名前も明かさないし、相手のも聞かない。――聞いたとしても覚えられないが。

 だが、今日の俺は失敗した。酒に酔いすぎていたのか、人選を誤ってしまったのだ。俺がシャワーを使っている間に、女は俺の持ち物を全て持っていってしまった。洋服さえ……パンツさえ無い。俺は途方に暮れた。スマホもカバンに入れていたPCも全部無い。腰にタオルを巻いたままの姿で、呆然と立ちつくした。やられた。これじゃどこかのスケベオヤジと一緒じゃないか。
 その代わりなのか、なんなのか、ベッドの上には血だらけの服が置いてある。そばにはナイフが……。

 こりゃいったいなんなんだ? どういうコトなんだ? なんかの冗談か?
 とにかく助けを呼ぼう、警察に電話するなり、ホテルの従業員に来てもらうなりしなければ……。こんな情けない格好ではどうにもできないのでバスローブでも無いかとクローゼットを開けたとたん、俺はしてやられたと思った。

 クローゼットの中には、女の死体があったのだ。

 しかも、この女はどこかで見たことがある。なけなしの記憶を総動員してみたが、うすぼんやりと『見たことがある』としか思い出せない。俺と関係があった誰かの死体――。部屋には血だらけの服と凶器。そして、スマホという記憶をなくした俺。

 やられた。仕組まれたんだ。誰かが俺をはめたのだ。俺を犯人に仕立てようとしているのだ。 
 これぐらい周到に準備されているのだ。きっと今頃、スマホの中身もPCも中身は消されているだろう。クラウドにあったバックアップもPCを解析されて消されているのだろう。

 いや……そうなのか?

 本当に俺が犯人じゃないと言い切れるのか? 忘れているだけじゃないのか?
 混乱する真っ白な頭の中で考える。俺じゃない。俺じゃない。いや……俺じゃないはずだ。俺がやったんじゃない。きっと……。

 スマホさえあれば――。

 ドアをノックする音を聞きながら、これからのことを考えて、『忘れてしまいたい』と、俺は生まれて初めて思った。


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