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【短編】言わぬが花

※落語っぽい会話文での話です

 一、

「おやぶーーーん! てぇへんだてぇへんだ!」
「またかいイチ。毎度毎度騒々しいねえ」
「はあはあ……。す、すいやせん。こうやって登場しないとどうも落ち着かないもんで……」
「はあ。するってーとなにかい。なにも大変なことはないってことなのかい?」
「へえ。そうです」
「イチ」
「へい」
「今度から、その『てぇへんだ』を、裏の神社で存分にやってから、家に来ておくれ」
「おやぶぅん。そんな冷たいこと言わないでくださいよう。だって、こっちのほうじゃ初めてですよ。あっしら」
「こっちのほうって、どっちのほうだい?」
「やだなあ。とぼけちゃって。今までは、我茶屋界隈があっしらのなわばりみたいなもんだったんですけど、なにを思ったか作者が、こっちの雑文屋のほうに……」
「おっと。イチ。みなまで言うな。その話は、他人に聞かれちゃなんねえ話だ。いくら周りに誰もいないからって、どこに人の耳があるかわかりゃしねえ。その話は、これでやめとけ」
「へ? この話って、内緒の話だったんですか? だって、こんな派手に打ち上げて……」
「イチ」
「へい」
「『言わぬが花』という言葉があるの知ってるかい?」
「『いわぬがはな』ですか?」
「そうとも。世の中にはな、口に出して言わないほうが奥ゆかしいと思われることだってあるんだよ」
「はあ……はな……奥ゆかしい……ねえ」
「そうそう。さて、じゃ出かけるか」
「どちらへ行かれるんで?」
「いや、えーと。宝泉寺の住職に呼ばれてね」
「宝泉寺ってーと、門前の茶屋の団子がうまいんですよね」
「また食い物の話かい」
「いやもう。あっしはうまいものには目が無くて……。でも、親分。あそこの旦那が流行病でおっ死んじまってからは、店は閉まってるっていう話でしたけど、今は開いてるんでしょうか? 借金がどうとかって、話も聞いたんですけど、後家さん一人じゃ返せないでしょうねえ」
「おや、詳しいねえ」
「二、三日前に、宝泉寺横のため池の土左衛門をあらために行ったばっかりじゃないですか。その時に、あそこのおかみに話を聞いたんでさ」
「なるほど。で、どうだった?」
「どうって……、まえはころころと、良く笑う女だったそうですけど、いまじゃもうなんか、すっかりやつれ果てちゃってましたよ。女1人で生きて行くには、ツライご時世ですもんねえ」
「随分と、知ったような口を利くねえ」
「へえ。これでも苦労人ですから」
「そうかい。確かに、お前の女房にゃ苦労してるだろうねえ」
「そうなんでさ。あのカカアときたら……って、なにいわせるんですか!」
「ま、そういう用事で宝泉寺に行くってことさ」
「と言いますと?」
「やっぱり、この頭は空っぽだねえ」
「いててて。そんなにぽんぽん叩かないでくださいよ。あっしの頭は西瓜じゃありませんよ」
「宝泉寺の住職がこの間の土左衛門を、供養してくれるっていうんで、出向くんだよ」
「そうですか。仏さんの身元の方は未だに解らないんでしたよね」
「ああ。この間は、寺前の三次が、旅に出てるってーんで、あたしが代わりに仏さんを検分したけどね。昨日、三次の下の者に聞いた所じゃ、未だに仏を知るものは誰も出てこないらしいね」
「じゃ、供養は無縁仏としてですか?」
「そうなるねえ。かわいそうなこって……」
「あのホトケって、身投げ……ですよね?」
「ああ、三次は川上様にそうお伝えしたらしいがな」
「でも親分。変なこと言ってませんでした? あのホトケさんをおがんだとき……」
「イチ」
「へい」
「おまえは、妙なところで頭が冴えるんだねえ」
「へへへ。そうですか?」
「いつもその調子だとありがたいんだけどね」
「へい。精進します」
「あのホトケ、手をしっかり握ってただろう」
「へえ。こんなふうに、しっかりと」
「そうだ。自分から溺れに行ったにしちゃあおかしいとおもわねえか」
「どうしてです? 手を握ってるからって、なんか変なんですか?」
「イチよ。お前さんが、水に入ったとして足のつかない場所まで行くのにどうする?」
「ため池のことですか?」
「そうだよ」
「そりゃ、こうやって歩いて……あっ!」
「普通、人は歩いて水の中を進むのに、手をげんこつのままでは進まないだろ?」
「そうです! そうです! ぐうのままじゃ歩きにくいや!」
「だからさ。どうもしっくりこねえ」
「でも、溺れるときにぐーって握ったって事は……」
「無いね。どんなに覚悟の入水だからっていっても、知らず知らずにもがいちまうものだよ。それに、ホトケの袂に石が入っていたって痕跡もねえからな」
「ということは、誰かに殺られたあと投げ込まれた……ってことですかい」
「ま、まだ何とも言えないけどね。ホトケの身元が割れれば、なんか解るんだろうけどねえ」
「でも寺前の三次親分はもうこの件から、離れるんじゃ……」
「そうだろうねえ。自害って決めてるみたいだからね」
「親分はどうするんですかい?」
「どう……って?」
「だから、調べてみるとか……」
「いやいや。これはあたしの領分からはずれてるからね。あくまでも、なんとなく引っ掛かるって程度のことさ」
「……そうですかぁ?」
「なんだい。イチ。その疑いの目は」
「親分って、気になることはとことん調べてみないと気が済まないタチだからなあ」
「そんなことは無いよ。今回のことは三次がきちんとするだろうし、あたしはちょっと三次に助言するだけさ」
「それそれ。それが危ないんですってば」
「おっと。そろそろ出なきゃ、経に間に合わねえ。いくよイチ」
「へいっ」
 

二、

「へも、ほやふん。んも。あのひゅうひょくっー……」
「あーああ。もう、食うか喋るかどっちかにしろよ」
「ふぁ……ぐっ……」
「あれれ。また団子を喉につまらしちまいやんの。まあ、イチの死に方としては、ぴったりかもしれないけどね」
「……ふげっ……べっ……」
「おーい。茶ぁもってきてくんな!」

「はー……。死ぬかと思いましたよ。三途の川をもうちょっとで渡るところでした」
「で、また今回も、観音様は見えたのかい?」
「今日は、団子屋のおかみが観音様に見えました。茶じゃ間に合わないってんで柄杓に水を持ってきてくれたのが良かったですわ。もう、青い顔して心配してくれるなんて、あっしもまだまだ捨てたもんじゃ無いですねえ」
「イチ」
「へい」
「寝言言ってるんじゃないよ。店先で死人が出たら気持ち悪いからに決まってるじゃないか」
「いいや。親分。あの目つきは確かにあっしに惚れてるんですぜ」
「……お前は幸せな男だねえ」
「へへ。よく言われます」
「誉めてないよ。とにかく、食うのと喋るのを一緒にやるなっていつも言ってただろ。こんど詰まらせたら、浄土に行くまで見守るからね」
「すんません。あっし、なんか食うと喋ること思いつくんですよ」
「で、なんだい?」
「親分が、住職に『土左衛門で手を握っていたヤツを見たことあるかい』って聞いてましたよね」
「ああ」
「あそこのため池で、今年に入って三人は死んでるのに、あの住職ったら『土左衛門はあんまり見たこと無いから』って言いましたよね」
「ふふん」
「なににやにやしてるんですか?」
「イチにしては、いいところに気がついたと思ってさ」
「そうですか? へへへ」
「で?」
「へっ? 『で』って言われても困っちゃうんですけど、あの住職なんかそわそわして変だったなあと思うくらいで」
「ふふふん」
「もー。やだなあ親分。なにか解ったことがあったんですか? 棺箱をのぞき込んでホトケさん見てたじゃないですか」
「ああ。すごい匂いだったねえ」
「へえ。いつ見ても土左衛門は、いやですねえ。この、団子みたいにぷよぷよして……」
「おいおい、よしなさいよ。よく食いながらそんな話ができるねえ。ほら、お前の隣にいた、薬売りが、いやがってムコウにいっちゃったじゃないの」
「なんだい。これっくらいで、肝っ玉のちいせえヤツだな」
「ふつうはそうだよ」
「で、なにか解ったんですか?」
「んーんん。そうだねえ。傷らしい傷は無かったけどねぇ……」
「着物もとくに乱れていたわけでもなかったですしね」
「ホトケは、百姓じゃないことは確かだよね」
「へえ。手も荒れてませんでしたし、いい着物着てました」
「なんで、身元が解らないのかねえ。どうみたって、商家の旦那か、番頭くらいの感じなんだけどねえ」
「旅装束でも無かったですしね」
「うーーんんんん」
「うーーんんん」
「まねするんじゃないよ。そうだイチ、池からあげたとき、ホトケの腹はどうなってた?」
「腹ですか? えーと、ちょっと恰幅のいい男でしたから、こうぽよよんって感じで……」
「そうだな。ちょっと太り気味みたいな感じだったから……」
「…………」
「親分?」
「……いや、ヤメタ。まだ教えねえ」
「えーっ! どうしてですか?」
「ま、そのうち解るさ」
「もう。やだなあ。そうやってナイショにするんだから」
「ところで、イチ」
「へい」
「この店、借金はどうなったんだろうねえ」
「はあ? 借金……ですか?」
「そうだよ。亭主が亡くなっても、無事に店を開けられたみたいだねえ。女中も雇ったみたいだし……」
「へえ。そうですねえ。借金を返すめどでもついたんでしょうか?」
「そうかもねえ」
「でも、よかったですよ。またこうして団子が食えるんだもの」
「また、喉を詰まらすんじゃないよ」
「ふぇーい」
「じゃ、あたしは帰るから」
「えっ? 帰っちゃうんですか? ちょ、ちょっと待ってくださいよ」
「イチは、ゆっくり食べておいで。それで、この店のことちょっと聞いといてよ」
「? この店のことですか?」
「そう。だって心配じゃないか。次に来たときに、借金のカタに店が無くなっていたら、こんどは水筒持参でこなきゃなんねえだろ?」
「ああ。そうですねえ。こまりますねえ」
「そういうわけだから、聞いといて。あたしがいたんじゃなかなか、話しづらいこともあるだろうからさ。それにイチはおかみに気に入られてるんだろ?」
「へへへ。いゃあ。あっしには、連れ合いがいますからねえ。困りますねえ」
「あーあ。でれっとした顔しちゃって。そうでなくても細目だってのに、これじゃどこが目だか、皺だか区別つかないよ。まあ、困るのはイチの勝手だけどね。そこのところ腹でも膝でも皿でも何でも割って話聞いておいてよ」
「へえ。わかりやした」
「じゃ」
「あっ! 親分!」
「なんだい?」
「ここの勘定は?」
「払っておくよ」
「へへへ。ありがとうございやす~。ついでと言っちゃなんですがもう一皿食っていいですか?」
「四皿も食ってまだ食うのかい? よっぽどお前の女房のメシはまずいんだねえ」
「へえ。まずいのなんのって、あんなの裏の捨て猫でも食いませんよ……って、またなにいわせるんですか!」
「あはは。まあ、好きにおし。でも、それ以上は自腹で食いなさいよ」
「へいへいっ」

三、 

「あっ! 隠元豆!」
「帰ってきて、ひとことめがそれかい」
「ずるいですよ親分。あっしが暗くなるまで、働いてるってーのに、縁側で豆食いながら、酒飲んでるなんて~」
「まあまあ。イチの分もあるからさ」
「へいっ。ごちになりやす」
「……かああああっっっ。うめえ! この隠元もうめえ! 初物ですね?」
「ふふ。イチはなんでも『うまい』んだよなあ」
「おっと、親分。ちがいますぜ。あっしにだって、まずいと思う物だってありますよ」
「うんうん。イチの女房のメシはまずいんだよな」
「へえ。そらもう、人間が食うもんじゃありやせんよあんなの……って、家のカカアのことは、ほっといてくださいっての。もー。呑んじゃいますよ。遠慮なく」
「あれれれ。もう空っぽだよ。もうちょっと落ち着いて呑めないのかい? せっかくの美味しい酒なのに」
「もっと無いんですか?」
「しょうがないねえ。おーい! 酒持ってきて! あ、それダメ。それじゃなくてそっち。そうそう。味なんてわかんないんだから安いのでいいよ」
「あ、ひでえなあ。あっしにだって酒の味くらい……」
「解るってーの?」
「え、えーと……次の日になれば解りやす。上等な酒だと、次の日はすっきり目が覚めるし、安酒だと死にそうになりやす」
「はははは。イチらしいや」
「ところで親分。団子屋ですけど」
「ああ。どうだった?」
「それがどうもさっぱりなんで。団子屋のおかみ……"おつね"っていう名前なんですけどね。聞いた話だと借金は、なんでも金を貸してくれる人がいて、当座の借金はそれで払ったって言うんですよ」
「へえ。実家かなにかかい?」
「いえ。親分知らなかったんですか? あのおつねは、宝泉寺の捨て子だったんですよ」
「捨て子?」
「へえ。なんでも、宝泉寺の門前に、赤ん坊の時に捨てられてたそうです」
「ふうん」
「で、住職が困っていたところに、門前の団子屋の夫婦が、養子にくれ……と、申し出たんで」
「じゃあ、あの団子屋は、おつねの実家かい」
「へえ。そうらしいです。その団子屋夫婦はおつねが、十六のときに、流行病で、次々と亡くなったらしくて……」
「おやまあ。気の毒に。育て親も流行病で亡くしてるのかい」
「そうなんでさ。『あたしゃついてなくてねえ』なんて、ため息ついてましたよ」
「その後、団子屋はどうしたの? おつね一人じゃできないでしょ?」
「それがですね。それまで団子屋に出入りしていた粉屋が不憫に思ったらしくて、粉屋に奉公していた留造って雇い人を団子屋で働かせることにしたんでさ」
「ほほう。世の中捨てたもんじゃないねえ」
「美談ですねえ。でもまあ、門前の団子屋は繁盛してるから、粉屋としてもつぶれちまうのが惜しかったのかもしれませんね」
「なるほどね。その留造が、おつねの旦那になったわけか」
「そうです。その後、詳しくはわからねえんですけど、その懇意にしていた粉屋のおたなが、火事にあいましてね、店を閉めたんですわ」
「ほう」
「仕方なく他の店から、買い付けすることになったんですけどね。その矢先に留造が、病に倒れまして。おつね一人でしばらくは、留造の看病と団子屋でてんてこ舞いで働いていたそうなんです。
 それでも、やっぱり一人でやるには大変だし、亭主は病気で薬だ医者だと金がかかりますでしょ? 粉屋に払う金にも困ったらしくて、達善のところから、金を借りたんだそうです」
「達善って、あの評判の悪い金貸しだね」
「金貸しに評判のいいヤツなんて居ませんよ」
「まあそうか。でも金貸しだって商売なんだから、仕方ないんだろうけどね」
「で、おつねは、亭主がよくなると信じていたそうなんですけど、ご存じの通り死んじまいまして、後に残ったのは一人じゃとても切り盛りできない店と借金だけ……てなぐあいだったそうです」
「その借金ってどれくらいだったの?」
「へえ。三両ほどだったと」
「三両ねえ。簡単に返せる金額じゃあねえな」
「留造の親戚筋が出してくれたのかと聞いたんですけどね。留造の実家は、日野の方の水飲み百姓で、とてもじゃないけどそんな金なんて用意できないらしいです。葬儀にも来なかったって言ってました」
「じゃ、どこから出たのよ」
「それがはっきり言わないんでさ。ただ、『親切な人が貸してくれたから、これからはその人にお返しする』って言うだけで」
「ふうん……」
「あ、それから、あの女中なんですけどね」
「うん」
「"ふき"って名前なんですけど、宝泉寺の住職から紹介されたそうですよ。どうやら農家の口減らしで、売り飛ばされそうになったのを、住職が説得して連れてきたらしいです」
「ふきって子は、いくつなの?」
「えーと。十四だとか言ってました。おつねも一人で寂しかったけど、妹が出来たみたいって喜んでいましたよ」
「妹……ってーより、親子ほど歳が離れてるんじゃないの?」
「さあ……いくつなんでしょうか?」
「聞かなかったの?」
「聞けなかったんですよ。聞いたら、あっしの背中をばんばん叩いて、ころころと笑いやがるんで……」
「ふううーーーん」
「あっ、なんですか? その目」
「いや。ずいぶんと楽しんできたんだなあって思ってさ」
「ばっ、馬鹿なこと言わないでくださいよ! いくら、おつねがあっしにホの字でも、あっしにゃちゃーんと、女房ってもんが……」
「あーあーあー。わかったわかった。えらいねえイチは。あんな女房でもきっちり操たててるところなんて」
「違いますって! もし、あっしがどっかで悪さして、それがカカアの耳に入ったときゃ……そらもう……どうなるか……」
「……そうだな……お前の女房なら、刃傷沙汰は免れないかもしれないな……」
「そうでしょ? そうでしょ? ぶるるるる」
「おっと、もう月あんなに高く出てら。早く、恋女房のところにもどんなよ。今頃、頭から湯気出してるかもしれないから」
「へい。それじゃまた明日。ちぇっ。すっかり酔いが醒めちまいました」
「長屋に帰って、女房のまずい飯でも食ってやんなよ」
「そうですね。まずい飯でも……って、もう! 親分!」
「ははは」
「それじゃ。失礼しやす~」

「おつねとふき……住職……かあ。あれ? また空だよ。イチのヤロウ全部呑んでいきやがって。おーい。酒もう一本持ってきて。そう、今度はそっちの美味い方ね」

 四、 

「おやぶーーーん。おやぶーーーん」
「………………」
「……あれぇ? いねえんですかい? おやぶーーーん!」
「おかみさんまでいねえや。まったくこの家は、十手持ちだってーのに、開けっぴろげで不用心なこって……。おやぶーーーん。おやぁーーーぶーーーん」
「……イチ」
「うわあっ! びっくりした! いきなり後ろに立たないでくださいよ!」
「なんで、あたしの名前呼びながら、茶箪笥覗いてるんだい?」
「あ……あ、えーーーっと……、親分がひょっとしてここに隠れてるんじゃないかとおもって……」
「そんなわけないでしょう。大の大人がなにが楽しくてこんな所に……って、ほら、その後ろに隠してるもの出しなさいよ」
「えっっ。な、何も隠してなんて……」
「まあ、いいけどね。大福で喉を詰まらせないようにしてよ」
「へへへ。ばれてました?」
「ほんとにお前は、食い気だけで生きてるような男だねえ」
「いやー。なんたって、今朝起きたら、ウチのガキ共が、メシを全部平らげてまして、あっしはもう朝から、腹ぺこだったんですよう」
「寝坊してるからでしょ。もう昼前だよ」
「むぐ……ほうれすか……むぐぐ」
「ほら、お茶。……まったく、なんであたしがお前にお茶なんて入れなきゃならないんだろうねえ」
「へへへ。いつもすんません。……ふううっ。親分の入れてくれたお茶はウマイや」
「出涸らしだけどね」
「いえいえ。親分が入れてくれた茶なら、出涸らしだろうと宵越しだろうと……」
「そうかい。じゃこんどは、宵越しの茶っ葉をイチのためにとっておこう」
「ぶっ……」
「あーあ。汚いなあ」
「す、すんません。……って、ところで親分? 何処に行ってたんですか?」
「ああ。ちょっと三次のところにね」
「三次親分ですか? あっ。なんか解ったんですね?」
「いいや。なーんにも解らねえよ。ただ……」
「ただ?」
「久しぶりに今夜、三次と碁打ちでもしようかと思ってね」
「……碁……ですかい?」
「ああ。今の所、二勝三敗で負けてるからねえ。そろそろ、取り返さないと」
「そんなこといって、三次親分と碁を打ちながら、アレコレと聞き出すつもりなんでしょ?」
「イチ」
「へい」
「おまえがあたしの下で働くようになって、どれくらいになる?」
「へっ? どれくらいって……ひぃ、ふぅ……みぃ……五年ってところですか」
「五年ねえ。あんなに使い物にならなかったのに、五年でいっちょまいに、人の頭の中を考えようとするようになったんだねえ」
「へ? どういう意味ですか?」
「まあいいや」
「……親分」
「なんだい? 深刻な顔しちゃって」
「あの、ため池の土左衛門のことなんですけど……」
「うん?」
「もしかしたら、あの土左衛門、おつねがやったんじゃ……」
「ほう。どうしてそう思ったんだい?」
「だって、急に借金は返せるわ、店は開けるようになるわ、人は雇うわ……って、なんか変じゃないですか。だから親分は、団子屋のことを気にかけていたんでしょ?」
「そうだねえ。あまりに急に変わったよね。団子屋は。」
「あっし……夕べ煎餅布団にくるまりながら考えたんでさ。あの男をやったのが、おつねだとしたら、どうやったんだろうって」
「それで、解ったのかい?」
「さあ……それが、さっぱりなんでさ。何処にも傷があるわけじゃないし、首を絞められたあとがあるわけでもない。それに、いくら火事場の馬鹿力をだしたって、あの恰幅のいい男を、おつね一人で、池まで運べるわけがないし……」
「そらそうだよ。だって殺ったのはおつねじゃないもの」
「えっ! じゃあ、親分には解ってるんですか?」
「うーん。おつねが殺ったんじゃないってことだけは、解ってるね」
「じゃ、じゃあ誰が殺ったんで?」
「誰が……って、それは解らないよ」
「っつーことは、やっぱり三次親分に……」
「まあまあ、そんなことはいいからさ。ちょっと散歩にいかねえか。いい天気だしさ」
「散歩って……そんな呑気なこと言ってていいんですかい?」
「だって見てごらんよ。こんなに気持ちよく晴れてさ。少しばかりぶらぶらしたってバチはあたらねえだろう」
「でも……」
「途中でそばでも食おうよ。ほら、イチ、行くよ」
「えっ! そばですか? そばならあっし、うまい店知ってるんでさ! あっ、親分! 待ってくださいよう」

 

「って、散歩とかいいながら、この道は宝泉寺に行く道じゃねえですか。親分。また帰りに団子屋に寄るんで?」
「まったく、おまえはよく食うねえ。三杯もそばを食っておいてまだ団子食う気かい?」
「えっ? じゃあ団子屋には行かないんですかい」
「ため池の奥の方に、ヒツジグサ(※)があっただろ。それがもうすぐ咲くころだ。せっかくだから見ておこうじゃないかと思ってね」
「花見ですかぁ?」
「そうそう」
「……今に始まった事じゃないですけどね。あっしはたまに、親分って人がよくわからなくなりやす」
「ふふふ。イチよ」
「へい」
「自分の頭の中だってかたづいてないのに、他人様のことなんてわかるわけないじゃないか」
「はあ……」
「でもね。その『解ろう』とする、気持ちは、岡っ引きにとって大事なことさ。ぜんぶ解らなくたっていいんだ。ほんの少しの欠片でも、解りたいと思うことだね」
「……へえ」
「イチ……」
「へい」
「ちょいと聞くが、おまえさんは、この先てめえがどうなるか解るかい?」
「どうなるか……ですか?」
「そうだ。二年後、三年後、五年後……どんな暮らしをしているかってことさ」
「どんな暮らしって言われても、いまとあまり変わりがねえような気がします。あっしは、相変わらず下っぴきで、カカアは、この先どんどんババアになって、ガキ共は、うるさくなるばっかりで……」
「今と変わらないか」
「へえ」
「イチよ」
「へい」
「その変わらない暮らしを、続けていくことって、大変なことなんじゃないだろうかねえ」
「そんなもんでしょうか? だって、一晩眠れば、お天道様はちゃんとあがってるし、日が昇れば、仕事するのがあたりめえのことだし。今まで続けてきたことを、そのまんまするだけでさ」
「その『そのまんま続ける』ってことができない者だっているわけでしょ。変わらない暮らしを手に入れるヤツってのは、いちばん幸せなのかもしれないね」
「……おやぶーん……」
「なんだい。情けない声だして」
「すんません。あっしにはよく……」
「ははは。まあいいよ。そのうち解るだろうからさ」
「また『そのうち』ですかい? ちぇっ。親分ずるいや」
「ずるくなんかないさ。あたしと話した事が、霧が晴れたように、いや、ヒツジグサの花が開くように解るときがくるさ。そうなりゃイチも一人前だよ」
「……へえ……」
「ほら、池が見えてきた。ヒツジグサはどうかねえ。そろそろ日が傾きかけてるから、もうしぼんじまったかなあ」

※ヒツジグサ――スイレンの一種。未時(ひつじどき・午後二時頃)に咲くといわれることから、ヒツジグサとよばれる。だが、ホントに咲くのは午前中。

五、

「あれ? イチ」
「あ、お早うございます親分」
「浮かない顔してどうしたんだい?」
「はあ……なんか、夕べ寝付きが悪くて、なんだか寝足りねえ感じで、ぼーっとしちまって」
「ふうん。おおかた、女房のいびきがうるさくて眠れなかったんじゃないのかい」
「そりゃもう、ウチの女房のいびきときたら、向こう三軒両隣もカカアが寝てるのがハッキリ解るってなぐあいで、すげえもんなんですけどね……そうじゃなくて」
「そうじゃなくて?」
「あっし……きのう、親分が言ったこと考えてみたんですよ」
「あたしが言ったことをかい」
「へえ。変わらぬ暮らしってのが、大変で、大事だってことなんですけどね」
「ふうん」
「そりゃあ、あっしは学はねえし、字だって、親分に教わってやっとこさ読み書きできるようになったぐらいで、あんまり難しいことはわからねえんですけど。それでも、親分が言いなさった、『大事なこと』ってのは、とっくのとうにあっしにも、わかっていることなんじゃないかって……」
「ほほう」
「解っているけど、普段はそんなことあたりめえになっちまって、表にゃでてこねえ。だけど、忘れているわけじゃなくて、ただ隠れているだけなんだなって、ガキやカカアの寝息を聞いていてそう思ったんでさ」
「イチ」
「へい」
「えれえじゃねえか。それが大事なことだ」
「へえ……でもなんだか、頭がぼーっとして……」
「いいことだよ。そうやって、いろいろ考えるのは。岡っ引きってのは、人様の暮らしを守るのが仕事だ。そのためには、人の暮らしの大事さってものを知っていなきゃならねえ。確かに、罪を戒めるのは必要だ。だが、咎人ってのがぜんぶ必ずしも自分の益だけのために悪いことをしているってわけでもねえ。いろんなヤツがいるように、いろんな咎人がいる。人の心ってものをないがしろにして、罪を裁こうなんてことはやっちゃなんねえ。いろんな咎があるように、裁きにもいろいろあるんだ。そのことをよく考えて、ちゃんと肝に銘じておかねえとな」
「お、親分……」
「なんだい」
「ま、また難しくて……」
「ははは。そうだな。難しいな。あたしもね。岡っ引きに成り立ての頃、この話を川上様から聞いて、三日くらい眠れなかったよ」
「ははあ。なるほど。川上様からですか」
「ま、でもこの話の意味が本当に解るまでには、十年はかかったがな」
「じゅ、十年ですかぁ?」
「せっかちのイチには、考えられねえだろうけど、その日その日を大事に生きていりゃあ。そのうち解るさ」
「へえ……十年ねえ」
「そうそう。十年かけて、イチが、ぽんっと膝を打つころには、あたしも楽隠居して、縁側で猫の蚤でもとってるだろうねえ」
「親分が猫の蚤ですかぁ?」
「あ? あたしにだって、猫の蚤くらいは捕れるさ。あ、そうそう。イチ。これお食べよ」
「あっ! 亥沢屋の水饅頭!」
「きのう、三次が持ってきてくれたんだ」
「うわあ。すげえや。あっし初めてですぜ。これが評判の水饅頭……」
「なかなか涼しげだよね。亥沢屋も粋な菓子を考えるもんだ」
「三次親分、なんて言ってました?」
「なんてって?」
「親分は、ゆうべ三次親分と、なんか話なすったんでしょ」
「まず、碁の事を聞きなさいよ」
「碁ですかあ。……じゃ、碁はどちらがお勝ちになったんで?」
「どっちが勝ったと思う?」
「その顔は、親分が勝ったんですね?」
「まだだめだなあイチは。顔を見て解ったような気になっちゃ」
「えっ? じゃあ負けたんですか?」
「勝ったよ」
「やっぱり勝ったんじゃないですかぁ」
「ふふふ。まあ、なんとかね」
「それで、三次親分から話は聞いたんですか?」
「ああ、そうだね。イチにもちゃんと話しておかないとね」
「下手人が解ったんですか?」
「下手人ねえ。下手人なんていないよ」
「へっ? じゃあの土左衛門は……」
「あの土左衛門は、きっとヒツジグサを見に池に行ったところで、心の臓の発作にあったんだろうな」
「ええ? だって親分……」
「三次の話はこうだ。あのかわいそうな土左衛門は、朝早くヒツジグサを見に池に出かけ、その時に持病の病で倒れた。倒れたときに、運悪く足を滑らせて池に落ちて溺れちまった――」
「…………」
「かわいそうなこって」
「…………親分」
「なんだい?」
「ほんとの所はどうなんです? 親分の見立ては」
「……イチ」
「へい」
「気晴らしに、今日も池に花を見に行かないかい」
「えっ? また今日もですか?」
「昨日は、遅くなっちまったから、花が半分閉じていたけど、いまからならまだ開いているさまを見られるだろうよ」
「だって……」
「まあまあ。いいから、ホトケさんがどんな気持ちで花を眺めたか、考えながら酒でも供えて供養してやろうじゃないの

「はあ……」

六、

「ほら、見てごらんイチ。いい景色じゃねえか。昨日は閉じてしまっても、またこうやって、花びらを一生懸命開いて……」
「あ。花がたむけてありますね……親分……あの土左衛門は、朝早くにこの花が咲くんだと思ったんでしょうか? だって、ヒツジグサってくらいなんだから、昼過ぎに見に来るならともかく……」
「イチ」
「へえ」
「いいかい? これから話すことはここだけの話だ。お前が、極楽に行くまでしっかり胸にしまっておきな」
「……へい。わかりやした」
「あの土左衛門はな。三次に聞いた話だとふきと一緒に旅をしていた女衒だということだ」
「えっ?」
「実は、きのうそいつの身元が解ったそうだ。身元っても大したことじゃねえ。益吉ってヤロウで、決まった住みかは無いし、どこかの女郎屋とも懇意にしてるわけじゃない。ふらっと、娘を連れてやってきては、高値で買い取ってくれる店に置いていく……ってな具合だったらしい。娘を半分無理矢理さらってくるような買い方をするらしくて、女衒仲間の評判も悪い奴だったとのことだ」
「じゃ、三次親分は、ずっとその益吉のこと調べていたってことっすか?」
「そうだな。三次が言うには、ふきは、八王子近くの農家の子でね。父親を最近亡くして、働き手が無くなって食えなくなった。そこで母親が困った末に、ふきを売ったんだそうだ。
 まあ、よくある話だな。で、その益吉ってやつはひどいやつだったようで、道中ふきに飯も食わせないどころか、水さえ与えなかったらしい。それで、門前の団子屋の前で、ふきが気を失って、たまたまそれを見ていた、おつねが助けたんだ。だが、ふきだけならともかく、得体の知れない男を家に上げることは、ちょっとまずいんじゃないかとおつねも思ったんだろうな。日も暮れかかっていたことだし男の方は、宝泉寺の方に泊めてもらうことにして、ふきの看病をしたんだろう」
「ってことは、その益吉は住職が?」
「御仏に仕える住職が人殺しなんてするもんかい」
「じゃ、なんで死んだんですかい?」
「検使役の話では、溺れ死に……または、息が詰まって死んだということだ」
「息が詰まって?」
「団子だよ」
「団子? 団子の食い過ぎかなんかで?」
「ばかだねえ。どこの世に食いすぎで死ぬヤツがいるかい。喉に詰まらせたんだよ。団子を」
「えっ! そ、それって、あっしがこの間……」
「そうだな。イチもあと一歩間違えたら、奴さんと同じ事になってたんだろうな」
「ぶるるるっ。くわばらくわばら……。
 あっ! だから、おつねはあの時あんなに真っ青になったんですね?」
「そうだろうねえ」
「それだったらどうして、そいつは池なんかに?」
「あくまでこれは、あたしの想像だけどね。たぶんおつねは、寺のほうに団子の差し入れをしたんだろう。寺の方も急な客人で、夕餉の支度も間に合わなかっただろうしね。それを腹が減った益吉は、慌てて食ってしまった。で、イチみたいに喉に詰まらせた。運が悪いことに、周りに誰もいなかったもんだから、一人でこときれてしまった……。あとでそれを見つけた住職は、急いで喉に詰まった団子を引っぱり出してみたものの、そいつはとっくに死人になっちまってる。さて、どうしようってーんで、とりあえずおつねの所に、客人が亡くなったことを知らせに行った。御番所に届けようかというときに、おつねから事情を聞いて、ふきが不憫に思ったんだろうな。番所に届ければ、女衒の身元はすぐ解るだろうが、解ってしまえばふきは、女郎屋にいかなきゃならなくなるかもしれない。あまりにも弱々しくて、たよりなげなふきの姿をみて、おつねは、それだけはなんとかならないか……と、住職に泣きついた。おおかた『私がここで、妹のようにめんどうみてやるから』とかなんとか言ったんだろう。捨て子だったおつねは、親に売られた娘に、自分の姿を見ていたんじゃないかな。それに、おつねは、団子屋夫婦に、本当の子供同然に育ててもらった。その恩返しをしたくても、もう親はいねえ。寄り添って生きていく亭主もいねえ。生きていくのに、心細くて仕方なかったんだろう。だが、この娘を自分が守ってやれば、しっかりと生きていく目的ってものができる。まあ、そこまで考えたかどうかはわからねえけどな」
「でも、それって……」
「まあまあ、最後まで聞きなよ」
「……へい」
「住職もそうとう困っただろうが、だが、自分の娘同様に可愛がってきたおつねの頼みだ。人助けにもなるだろうと思って、手を貸してやることにした。ホトケの着物を脱がせ、自分の着物を着せて、おつねと二人でため池まで運び、落とした――」
「なんで着物を着替えさせたんですか?」
「旅装束のままだと、お調べの範囲が広がるだろ? そうすると、女衒を知る者が出てくるだろうと思ったんだろうなあ。覚悟の入水だったら、調べが早く打ち切られるってことを、住職は知ってたんだろうな」
「ははあ。なるほど」
「だけど住職にしてみれば、仏様の教えに反することをしちまったんだから、今でも心を痛めているんだろうねえ」
「益吉を、捨てたことがですかい?」
「そりゃそうだよ。どんな悪いヤツだろうと、なんだろうと人の命の重さにはかわりねえ。ふきをかばうためだとはいえ、亡骸をぞんざいに扱うなんてのは、てめえにとっては許されないことだ。だが、住職は、ふきのため、そしておつねがこれから生きていくために手を貸した」
「この話……三次親分は承知してることなんでしょうか?」
「ああ。三次は、細かいことは言わねえが、たぶんなにがあったかはお見通しってやつなんだろう」
「で、でも川上様には……」
「イチ。だからこの話は、てめえの胸におさめとけっていうこったよ」
「……へえ……」
「納得いかねえかもしれねえが、誰もホトケを殺ったわけじゃねえ。ただ、ちょっと場所を移しただけの話だ」
「それでも……」
「それでも?」
「それでも変ですよ。なんで、わざわざそんなホトケを捨てるなんてことしたんでしょう? 『門前の三次』と言えば、界隈では情に厚いって評判だし、住職がわけを話せば、ふきを引き取ることだって出来たでしょうし……」
「……あわててたんだろうな。住職もおつねも。それに三次が旅に出ていたことを知っていたんじゃねえか?」
「あ、なるほど。三次親分の留守に、どういうお調べが入るか解りませんもんね。寺の中での変死だったら、同心の川上様や検使役も細かくお調べになりますものね」
「その点、ため池で見つかった死体だったら、団子を喉に詰まらせて死んだのか、それともおぼれ死んだのかの区別は難しいし、よしんば、検使役が疑ったとしても、見つかった場所が場所だけにはっきりとは言い切れねえだろうしな」
「なんだか、あっしの頭では、どう扱っていいやら……」
「まあ、あくまでも、あたしの当て推量の話さ。あくまでも……な」

「……親分。聞き忘れてたんですけど、あの団子屋の借金はどこから……」
「たぶん、死んだ益吉が持っていた金だろう」
「……それ……三次親分は……」
「ああ。解ってるんだろう。だが、何も言わねえだろうな。三次は」
「それがほんとに、いいことなんでしょうか? 罪を犯したことを解っていてなんのおとがめもしないって、いいんでしょうか?」
「三次が後始末をきちんとつけるだろうよ。本来なら川上様に細かく報告しなきゃいけねえことなんだろうけど、三次と差配のしきりでこのことは、おしめえになるだろうな」
「じゃあ。この件はもう……」
「なあ、イチよ」
「へい」
「人が生きていくのは、簡単なようで難しいもんだよな」
「…………」
「でもな。このヒツジグサのように、一度閉じてしまっても、次の日にはもう一度花を開くことができるように、何度でも懸命に花を咲かせようって姿は、見ていて気持ちのいいものじゃねえだろうかね」
「…………」
「お前には合点がいかないのかもしれないが、このことをとがめたって誰も幸せにはなんねえ。住職もおつねもふきも、今回のことで心の中に大きな暗い淵ができちまった。今まで守ってきた『まっとうに生きていること』というのを壊してしまった。そのことで、これからずっと悔やんだりするだろう。だけど、その淵を見ながら、生きて行かなきゃなんねえ。できるのはただひとつ、懸命に生きることだけなんだよ」
「……益吉もまた、生きていくために人買いなんてことをやってたんでしょうねえ……」
「そうかもな。益吉なりの、『まっとうさ』で生きていたんだろうよ」
「益吉には、家族はいたんでしょうか?」
「自分では、天涯孤独だって言っていたらしい」
「……なんかやるせねえ話です……」
「そうだな」
「この酒、少しここにまいてやっていいっすか?」
「ああ。供養のための酒だ。供えてやんな」
「親分……。あっしらのお役目って、いろんなことを飲み込んで、胸のここんところが重たくなることもあるんですね」
「そうだな。だが、それに負けない強い心を持っていないと、岡っ引きは勤まらねえよ」
「へえ。肝に銘じやす」

 

「言わぬは言うに勝る――言わぬが花……か」
「あっしは、花より団子の方がいいですけどね」
「イチ」
「へい」
「団子屋に寄って、団子でも食っていくか」
「へーいっ!」

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