見出し画像

【短編小説】重い鞄

                     
「雨の日ってキライよ。じめじめして、髪の形は決まらないし……」
窓ガラスを伝わる雨を睨み、自慢のロングヘアを指にからませながら、
彼女は言った。
 もう既に、20分は同じ話を繰り返しているような気がする。 

 世田谷にある彼女のアパートは、築20年の年代物。雨漏りこそしないが、
湿気で部屋中がかび臭くなるらしい。
 彼女とはつきあって3年になる。遠距離恋愛になって、半年近く経ったところだ。 
「それで、返事は?」
 少々いらだって、彼女に尋ねる。
「ほらぁ、見て。最近枝毛がすごくって……」
「いい加減にしろよ! 答えが聞きたくて、時間がない中やってきたという
のに」
 つい、激しい口調になってしまう。だが、のらりくらりとはぐらかされるのはもう沢山だ。
「……だって……」
 彼女の、瞳が潤んでいる。
「1ヶ月前に、どうするか決めろって言ったんだぞ? それなのに、決まってないのか?」

 時計を気にしながら、彼女の反応をうかがう。

「今、仕事は辞められない……それは、あなたも解っているでしょ?」
「今日明日の話をしているんじゃない。半年か1年後、俺のところに来る気があるのかどうかを聞いているんだ」
「……決められないわ……だって、半年もたったら、わたしもあなたも周りの
環境がすべてちがってくるし、それに……自信ない」
「……それが、おまえの答えなんだな」

 福岡の親父が倒れたことから、俺の生活は一変した。
 小さいながらも、3代続く和菓子屋ののれんを守り通してきた親父が、去年の暮れ、脳梗塞で倒れた。幸い、軽かったから命に別状は無かったのだが、右半身が不自由になってしまったのだ。一人息子は東京で、自分の道を歩んでいることだからと、親父は店を畳むことを考えていたようだ。確かに、家を継ぐのがイヤで、東京に飛び出していた親不孝だったのだが、いざ、生まれ育った店が無くなると思うといても立ってもいられなくなった。そして、職人として生きてきた父の姿を思い起こし、俺も親父のように、ひとつの物を生涯かけて作り続けるような生き方をしてみたくなった。今まで、なにをしても手応えを感じられなかったからなのか、結局、出来るところまでやってみようと思い、店を継ぐ覚悟をしたのだ。

 東京を離れてから半年近く。遠距離ながらも、月に二度は東京に出てきて、彼女と会っていた。 しかし最近は、離れている距離と時間が、二人の間に、溝を作っているのではないかと、焦ってもいた。
彼女の本意が聞きたくて、プロポーズしたのは、一ヶ月前。
返事を求めても、いままで、うまくはぐらかされて、後のばしになっていたのだが、今回の上京で、必ず返事をもらう決意で、彼女のアパートに来たのだ。

「いままでのまま、続けることは出来ないの?」
 瞬きすると、こぼれてしまう涙を気遣い、大きく目を見開いたまま、彼女は俺に尋ねる。
「このままじゃ、俺も先に進めない。おまえだってそうだろ?心細いときに、頼る相手は遠い。それに、俺はもう東京に戻るつもりはない。そうしたら、おまえが東京を捨てて俺のところに来るか、それとも別れるしかないだろう?」

 俺は今、どんな顔しているんだろう。なんでこんなにすらすらと言葉が出てくるのだろう。まるで、このときのために用意してきたみたいに。
「解ったよ。どうしても決められないんだな。俺のところに来るのを迷うくらいなら、来ない方がいい。確かに、今までの生活とは、全く違ってしまうからな」
「わたしは……あなたにはついていきたい……でも、仕事を続けたいの。やっ
と手応えが感じられるようになってきた所だし。わがままなのは解っているけど……」
「そうだな……前からのおまえの夢を、壊すわけにはいかないな。本当は解ってはいたんだ。こんな終わり方になるんじゃないかって……」
「……ごめんなさい」
「謝ることはない、俺が福岡の店を継ぐ気にならなければ、全てを手放すことなく生活できたし、俺もおまえと別れることを考えなくて済んだんだ。 みんな俺の身勝手で始まったことなんだから」
「あなたは何も悪くない……!」
 涙が頬を伝うのを拭いもせず、彼女はさっきからクローゼットの方を見つめている。

「もう行くよ。いつか、俺の作った菓子を食いに福岡に来てくれよな」
「…………」

 居心地の良いこの部屋を、もう訪ねることも無い。名残惜しく部屋の中を見回すと、さっきから彼女が、クローゼットのドアを見つめている事が気になった。

「どうした? ここになにか飼ってるのか?」
 冗談混じりに、涙でぐしゃぐしゃの彼女に聞く。
「……うん。わたしの大事な大事な物を……」
 その言葉を聞いて、急に興味がわいてきた。小動物の好きな彼女のことだ、どこかで捨て猫でも拾って、こっそり飼っているのか?
「見てもいいか?」 
 かつて、俺の背広やワイシャツが掛かっていたこともあるクローゼットに俺の代わりに猫がいる……なんだか、皮肉なもんだな。
 そう思いながら、クローゼットのドアを開けた。
 そこには、黒い大きめの旅行鞄とダンボールが二箱。衣装持ちの彼女なのに服はまばらにしか入っていない。

「どうしたんだ? ここ?」

 不審に思い、ファスナーの開いていた旅行鞄を覗いてみる。すると中に、よく着ていた服や、俺との写真を飾っていた写真立て、お気に入りのコーヒーカップ?
「引っ越しするのか? 転勤か?」
「あなたのところに行くつもりで、荷物作ってた……でも、どうしても出来なくて……」
「……そうか」
 彼女が、さっきからクローゼットを見つめていたのは、俺についていきたい気持ちと、自分の夢との狭間で、揺れていたのだろう。
 
 のどに重い痼りがある。飲み込もうとしても、飲み込めない言葉がある。
「ありがとう……ごめんな」

 彼女のアパートを出て、駅までの道のりを、歩いていた。
水たまりに映る町の姿も、これで見納めになるのかもしれない。ふと気づく
と、黄色い傘をさしている赤いランドセルの女の子とすれ違った。あの子は、将来の夢は何なんだろう。アイドル? 学校の先生? 大人になって大事なものと夢との選択で悩むこともあるのだろうか。

 雨にうたれながら、少し早足で歩く。あの角を曲がれば、彼女とのこと全てが『思い出』という感傷に変わってしまうのだろう。一度だけ今来た道を振り返ると、小さくなった黄色い傘がにじんで見える。
 
 前髪から滴り落ちる水滴で、傘を彼女の部屋に忘れてきたのに気づいた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?