見出し画像

日常で肥大する自己幻想を”自律”することー『遅いインターネット』のアンサーソング(感想文)

この数年、とくに理由を言語化することなく、なんとなく「自立」ではなく「自律」という言葉を使うようになっていた。

そこにはたぶん、たまたまYahoo! JAPAN立ち上げにかかわった私が肌で感じてきた「自律・分散・協調」というインターネットの本質や、その後の「自律分散型」と表現される社会の到来への実感もあるのだろう。

でもなによりも、第二次ベビーブーマーとして生まれて専業主婦の母から「女も手に職をつけんば」と説なる願いを託され、自分自身もまた憧れてしゃにむにつかもうとしてきた「自立」への諦めが大きかったのだ、と気づいた。


その大きく深い諦めを得ることになったきっかけのひとつが、離婚だ。(なんだかぜんぜん社会の話じゃなくてごめん)

ひとは……という主語が大きいならば「私は」、どうしても依存をしてしまう。恋人、家族、組織、国家。LINEの返信を待ち続ける、家族に評価を求め続ける、組織に承認を求め続ける。アドラーが何と言おうとも。「ひとはみなひとりでは生きていけないものだから」と中村雅俊が喝破したとおりだ。ヘイ、ベイベー、誰でも良いから認めておくれ。

ただし、狭い共依存は自分と相手を共倒れさせることが多いと、私は40歳を過ぎた頃にようやく気づいた。下手したら「この人はダメだから、私がいなきゃダメなの」と、相手を無力化したうえでマウントすることで自分の拠り所としがちになる。DVやアル中の妻や、専業主婦をパートナーとする男性(逆にヒモを寄せ付けがちな女性)、あるいは過干渉な母親に、よくみられるように。

かくも、ひとは……という主語が大きいならば「私は」弱い。そんな頃、”車いすの小児科医”として知られる熊谷晋一郎さんが東日本大震災のときを振り返って「『自立』とは、社会の中に『依存』先を増やすこと」と語るインタビューを読んだ。ハッ!!!  とした。あっ、それでいいのか!

私はとても弱い。生きているだけで周囲に滅法迷惑をかける(会社も経営破綻させかけた)。とてもスタンドアローンな「自立」なんてできない。ならばせめて、薄く広く依存させていただくようにしよう。

離婚を決意した時(理由はいろいろあるのでこれだけではにけども)、少なくとも私は『人形の家』のラストシーンで颯爽と家を出たノラのように「自立」への思いで胸を熱く燃え立たせていたわけではなく、依存しがちな弱い私がこれから周囲と助け合いながら心身ともに健やかに生きることー「自律」を、静かに望んでいた。


本書では、吉本隆明さんの『共同幻想論』が大きく扱われる。吉本隆明さんは、人間は世界を認識するために「共同幻想」「対幻想」「自己幻想」の3つを使うといったらしい(『共同幻想論』は読んでいたけどちゃんと覚えていないで、本書の内容だけをもとに書きます)。

そして本書の著者の宇野さんは、これはSNSの基本構成と合致している、と言う。

そう、自己幻想とはプロフィールのことであり、対幻想とはメッセンジャーのことであり、そして共同幻想とはタイムラインのことに他ならない。
(中略)
自己幻想の肥大した人間はFacebookに依存し、対幻想に依存する人間はその対象となる人物とのLINEに依存し、そして共同幻想に同化する人々はTwitterに粘着する。

(ね、「慧眼」って、こういうことを言うんじゃない?)

吉本隆明は(戦争なんかで国家や組織のためにむちゃくちゃな殺人をしないように)性愛的な対幻想に依って共同幻想から自立せよ、と1968年には伝えていた。その後のバブルと「消費」構造の変遷などを経て、SNSに常時接続する時代になった(※このあたりは本書をちゃんと読んでみてください、すごく精緻に書いています)いまの課題を、著者の宇野さんはこう述べる。

対幻想(タグ付け)も共同幻想(リツイート)も自己幻想を強化することにしかつながらない今日において、いかに自立が可能か。それが今日の課題なのだ。より正確にはそれは自立ではない。三幻想の境界が融解したいま、それは自立ではあり得ない。自己幻想の肥大を抑制すること。

この先にもっと大事なことが書いてあるので、よかったらぜひ本書を読んでいただくとして。ここで私は、「ああ、そういうことだったのか!」と腑に落ちたのだった。


私は1999年から2009年までスペインに住んでいた。日本に帰ることを決めた時、東京以外で、と強く思った。出版プロモーションで5年ぶりに一時帰国したとき、「ああ、なんだか人間の脳みそが溢れ出ているような街だなあ」と感じて怖くなったのだ。際限なく、言語化すらされない人間の欲望に最適化されつづける街。快楽にうっとり身を委ねているうちに物を考えなくなるという、星新一の安楽椅子を思い出した。

繰り返すけど、私は弱い。体力もないし、意思も弱い。環境に抗う力はない。大学時代をほぼ麻雀荘のアルバイトで過ごしてきて、東京には「何して生きているかよくわからないひと」がいっぱいいるのも、怖かった。だから、海と山と街があって、ヒューマンスケールっぽい神戸を選んだ(ほかにもいろいろ理由はあるけれど)。

おそらく、肥大する自我を、「自然」をふくめた環境でセルフマネジメント=「自律」できそうなところを選びたい、と、漠然と感じていたのだと思う。そして、(まさに本書で大きく扱われる「ほぼ日」での連載と出版をきっかけに)フリーライターとコラムニストをなりわいとしていた私が、「海と山と地元の人」のなかで始めたのが、事業だった。

私は体力もないし意思も弱いが、困ったことに計算がいちばん弱い。私が始めた事業、これからの時代の仕事をつくる学びと実践の場「リベルタ学舎」は、いま7年目だけど、何度か経営危機に陥っている。「参加者の仕事づくりを応援すること」が自分の仕事になるかという実験であり、まぁこれが市場評価なので仕方ない。そして少なくとも、すがすがしい。私はウソなく生きている。詐欺師にならずに済んでいる。


情報技術の進展も加勢して、どこまでも自己肥大を進められる時代になった。自宅で寝っ転がって、少しも自分を賭けずに、誰かを祭り上げたり血祭りにしたりできる時代だ。そんななかで、著者の宇野さんの言葉を借りると、人間が「自己幻想が肥大する時代に程よく付き合っていく」ことが、いまとても重要になっている。そこで宇野さんは「遅いインターネット」のメディアをつくられるという。

私は、個人が日常の「くらし」を通じて社会に参加し世界を変革していく手応えをしっかり得るために、やっぱり「仕事」をつくる場をつくろうと思う。仕事はいい。市場に自分を晒すことで、肥大した自我はジャストサイズになる。そこから、自分自身と市場と対話し続けて、自分の仕事を深く強していくのだ。日常の「くらし」のなかで、自分が大地にふりおろす鍬で、実りが訪れ、誰かが確実に幸せになるところを、しっかり感じるのだ。

だから、誰もが自分の名前で仕事をすることを、私は何より大事にしたい。匿名に与えられる感謝は、あなたのものにならないから。私が共同発行人のメディア『DEMOくらし』(編集長:有田佳浩)では、ライターや編集者が自分自身を掘り下げ、「問い」を立て、対象とのあいだに新しい関係性をつくり、記事という価値にする。そして複業型プラットフォーム『未来なりわいカンパニー』では、同じプロセスで、参加者がひとり1プロジェクトを形にして市場に問う。

どれも、自分の名前で、「仕事」という日常のなかで行うから、意味がある。仕事はいい。マーケットという「シャバ」に自分自身を晒しながら、日常の「くらし」のど真ん中で、社会に参加し世界を変革していく手応えをしっかり得ることができる。そういう仕事をちゃんとしているひとは、すがすがしい顔をしている。負ける痛みや理不尽なリアルを知っているひとは、万能感を自制できる(ことが多い)から、誰かを血祭りにあげたりしない(ことが多い)。


自分がやろうとしていることはこういうことだったのね。本書を読んで、ようやくわかった。

……というのが、良書のもつすごさだ。おそらく本を読む前、私はこんな素敵なことを確信的に考えたりはしていなかった。なんとなく進んでいただけだ。良い本は「そう、それ、私もそう思ってたの!」と読者に言わせてくれる。ありがとうございます。

いや、世界を4象限に分けるという補助線とか、ほんと、すんごい良かった。私、素敵な言葉が載っていたページの端を折る癖があるのだけど、久々に本がハリセン化しました。


■本の情報■ 『遅いインターネット』(宇野常寛、幻冬舎×NewsPicks)

「今必要なのは、もっと<遅い>インターネットだ」
「インターネットによって失った未来を、インターネットによって取り戻す。」
「民主主義を半分諦めることで、守る。そのための『21世紀の共同幻想論』」
https://www.amazon.co.jp/dp/4344035763






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?