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中年だからこそ「みんな」を大切にしたい

昔からずっと、日本は高齢社会に入り“世の中老人だらけになる”と聞いていたので中高年がメインストリームになる日本に興味を持っていた。雑誌が売れない時代だけど《孫の力》なんかはどんどん部数を伸ばすのだろうか?とか思っていた。

しかし私達の世代が歳を取ったからと言って《孫の力》を読むわけではなく、ニュースステーションやニュース23を親と見てきた私達は団塊の世代とは全く違う種類の中年となるのである。

故に中年になるにあたっての指南書は存在せず“自分ごととしての中年”というのを味わう事になる。誰も中年とはなんたるかを教えてはくれない。

なので同じ世代のphaの新著《パーティが終わって、中年が始まる》は気になっていた。ゼロ年代に東京で暮らした者として、phaさんはすごく同世代感がある。あの頃の東京は広いようで狭くて、phaさんは友達の友達くらいの階層にいた。東京の有名人・平田さんがいて、少年アヤちゃんや糸柳や小池陸には文フリで出す冊子に文章を書いてもらっていた。あの頃はパフォーミングアートが盛り上がっていて快快経由で友達もたくさんできた。デフレの中でロスジェネを楽しんでいた。

それが2000年末になるとゲンロンや現代美術界隈でのジェンダー差別が出てきて「東京、何も変わっていないじゃないか」と失望した。ちゃんと自分の生活をし家族を作った方がいいと思うようにもなった。香港で仕事することを視野に入れたのもこの頃で、東京から離れる覚悟ができた。

結婚をし親を安心させて、仕事も頑張るというのが30代で、勉強意欲もこれまでの人生の中で1番高かった。しかし仕事は楽しかったけど、香港で暮らすようになり、民主運動に揉まれコロナ禍を経てパートナーとは別れてしまった。激動の30代だった。

この歳で一人に戻るのは恐ろしいことだった。20代の時よりも生活力はあるけれどメンタル的に人に依存できないのは想像できなかった。依存はよくないと思いつつも、結婚というのは人に依存“させられる“制度なのだ、そのことは痛いほどわかった(だからこそ別れたかった)。

別れと同時に自分はもう彼と出会った時ほど若くはなかった。すでに中年だった。その事実がとても私を心配させた。気がつくと周りには私より若い人の方が多くて、正直にいうと何も彼らから学ぶものが無い事に失望していた。残念だけど若い人からのエイジハラスメントを感じる事もたびたびあるからだ。年齢を意識すると悪い事ばかり起きる気がする。

本来、中年である事と年寄り扱いされる事は違うので、自分をネガティブにおじさんおばさんと思い込むのは何の意味もない。年寄り扱いしてくるその人こそが加齢を気にしすぎて心が老けている、〜歳を重ねる事がわからないからこそ〜、そしてそこに中年の虚しさや深みはない。中年というのは自分自身の問題でエイジハラスメントとは真逆の現象だ。

以上のことからほんとうの意味での中年とは何なのか。誰も教えてはくれなかった。だからphaが直面した中年クライシスに興味があった。香港島に向かう東鐵でAmazonで本を買った。香港の地下鉄に乗りながら東京の事象を読むのは贅沢な感じがした。

いろいろ頷くことは多いけど特に前半部分は生々しくて良かった。中年の自分の恋愛はもう20代の時と同じようなやり方は無理だと思う。性欲は昔ほど無いし、喧嘩もしたくない。会いたい時に会えれば十分で“家族になって死ぬまで寄り添う”気分にはなれそうもない。他人の恋愛にもとことん興味が無くなった。誰と何をしようが、どうでもよいことだ。自分が他人に何と噂されようが、それもどうでもよくなってしまった。

phaさんは本の中で、アセクシャルやポリアモリーにも触れていたけど、若い時より中年になってからの方が恋愛に於ける多様性が自分ごとになりやすいんじゃないかなと思う。私も20代の時の恋愛モチベーションは「この人と一緒にいたら勉強になりそう、自分を高められそう」しかなかった。本能的にそういう人を好きになった。自分のキャリアが浅いからこそ仕事ができる人に憧れた。でも大人になった今、そういうんじゃなくなっている。「純粋に一緒にいて楽しい、スキ」という感じで、まるで幼稚園児のようだ。そして付き合いたいという強い動機は昔より無い。

もちろん将来に不安を持つ独身中年なのでパートナーは欲しいけど、そもそももうみんなおっさんになっていて彼らは恋愛できる状態にない。なぜ男の同級生達は女に比べてガチの令和のおっさんになっているのか?女性の方が圧倒的に綺麗にしてるし心も若く見える。多分これは真実だしみんな言ってるけど男の方がホモソーシャルに揉まれているゆえに老けやすい。いずれなくなる産業である性風俗に男同士一緒に行くくらいにはホモソだから、御愁傷様である。かと言って若い人達も令和のおっさんと変わらない。この三十年、日本は一体なにをしてきたんだ?何も変わってないじゃないか、と2000年代末に抱いたあの感覚と同じだ。これは他力本願ではなく30代に結婚し男女格差を経験し香港で社会運動を経験しそして全てが良い方向にいかなかったからこそ感じる事だ。社会の事象にはタイミングが最も重要で、全てのことは努力や知恵だけでは達成できない。(自分の言っている事が団塊の世代と変わらない気がして辛い)

同世代だけでなく若い世代、親の世代とも壁を乗り越えて仲良くしたいけど、最近殊に世代格差を感じる事が多い。昔からずっと世界は良くなっていく派の人間だったので、須く「若い人は私よりも良い人だ」と思いたかった。でも、若い人も私の世代も親の世代も大して変わりがない、そのことに絶望を感じ、それが私の中の中年の不安を引き起こしている。ずっとくすぶっている世界を見ながら死ぬのが残念だ。 

残念な気持ちを抱きながら孤独な中高年だらけになるのだろうか。だからこそ私は「みんな」という感覚を忘れないようにしたい。大人が仲良く、そして喧嘩しない、そんな当たり前だけど難しい社会の実現。一緒に住まなくとも、おれが一人ならあいつも一人だろう、と思えるゆるい繋がりが欲しい。たまに電話して笑ったりしたい。今の所差別の無い平和な地球の実現は無理なので、せめて近くの人と喧嘩せず仲良くやっていきたい。

こどもや姪っ子に頼るような中年になりたくない。一人で死んでも「みんな」と共に死んだ感覚を持ちたい。

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